■23日(金)
朝に友人に電話をして会いたいというと、今日は金曜日で礼拝日だから、午前中は会えないことが分かりました。なので、本の校正などをして時間を過ごしていると、サンティヨさん(ダンサー)とプリョ・ムスティコさん(ジョクジャカルタ州観光文化局)がホテルにやってきました。プリョさんは、数年前に京都府の招聘で文化財保護行政を半年にわたって研修し、その後も、京都府の職員とのつながりを持ち続けている人です。去年、ジョクジャカルタ州知事(ハメンク・ブウォノ10世)が京都府にガムラン一式を寄贈しましたが、それを陰で支えてくれたのがこの人です。ちなみに楽器は現在、立命館大学に委託され、その使い方については僕がアドバイザーになっています。
さて、彼らがやってきたのは、やはり被災関係の件です。彼らは、踊りなどを通じて、地震の被災者を支援したく、それで僕に相談したいとのことです。もちろん、僕はそのためにジョクジャに来たわけですから、さっそく話を始めました。そして、彼らの企画書を見ると・・・。なんと、コンサートを日本ですると書いてある。「えっ、ジョクジャでなくて、日本で?」。確かに、日本でもチャリティコンサートをするけれど・・・。彼らに尋ねると、日本に行って ngamen をするのだ、と。Ngamen というのは、路上で演奏して僅かな収益をあげてゆくストリートの音楽家のことです。しかも、日本に行く旅費は自分たちで工面するというのです。これにはびっくりしたし、心を打たれました。彼らの熱意を感じて、是非、日本側でも計画するからと答えました。プリョさんも含めて4名が来日します。まだ日程は未定ですが、「ガムランを救え!」の活動に組み入れたく思いました。
午後からは、ガジャマダ大学の建築学科の教員で、文化遺産の保全やエコツーリズムなどに力を注いでいるシータさんのオフィスを訪ねました。ジョクジャカルタ周辺にはボロブドゥールやプランバナンといった1000年以上前の史跡が世界遺産として有名ですが、シータさんにとっての遺産は、それだけではなく、例えばジョクジャ市内に散在する19?20世紀の建築(近代建築も含まれます)も含まれます。またそのような物質的遺産のみならず、非物質的、つまり踊りや音楽といった伝統的な上演芸術もそうですし、ジョクジャ周辺の村々で発展している工芸文化、つまりバティックや陶器、銀製品などもまた、村ごとひとつの文化財であると捉えています。なので、今回の地震は、それらを一挙に崩したという意味で、大変な出来事であったわけで、彼女はそれへの対応で超多忙な日々を送っています。大学とNGOのオフィスを兼ねた1軒家には、絶えず学生や記者が出入りし、まさに噴火状態でした。忙しいなか、1時間ほど時間を割いてもらって、彼女の活動や文化遺産の現状についてレクチャーを受けました。その時点で、彼女は18のプロジェクトを動かしていました。例えば、貴重な建造物の再生のために、1カ所ずつにプロジェクトを立ち上げ、それぞれの復興資金を申請するというものです。例えば、プジョクスマンの建物についてはオランダの財団に申請し、コタ・グデの古い建物にはアメリカに、というように。実に具体的できめ細かい活動ですが、それだけに労力はどれほど大変だろうかと推察されました。その全てをここで紹介できませんので、関心のある方は、www.jogjaheritage.org にアクセスしてください。英語バージョンもあります。シータさんは、むかしプジョクスマンで舞踊を習い、踊っていたそうで、そういう意味では建築だけではなく、広くジョクジャの文化財について射程を広げています。僕は彼女に、「ガムランを救え!」プロジェクトの説明をし、ジョクジャ側の対応メンバーになってほしいと言い、快諾をもらいました。もちろん、シータさんのパートナーであるアキさん(インドネシア総領事館勤務)が日本側のメンバーであることも言い添えて。
ホテルに戻ると、ISI(芸術大学)の情報記録学部(メディア・レカム)の教員が2名来ていました。エディアル・ルスリさんとパムンカスさんです。彼らは写真学科の教員で、被災の後、すぐに現場に入って写真を撮ったとのことです。それを日本に人に見せてほしいと言って、写真データを持ってきてくれました。パソコンで見ると、壊滅した村の全容が写っている空中写真もあります。パムンカスさんは、ジャワポストという新聞社のカメラマンもつとめ、ヘリコプターで回ったらしいのです。クレジットさえつけると、その写真を日本での展示や、メディアで使用しても大丈夫というので、ありがたく頂戴しました。全部で100枚程度ですが、その1枚1枚はかなりの迫力で、死体なども平気で写っていました。これも必ず日本の方々に見てもらいますと返事をしました。チャリティコンサートなどでの展示やプレゼンに、とてもインパクトがあると思います。
それから、ガジャマダ大学に行って、以前の学部長であり、日本でいえば経産省の副大臣を務めていたシャイリンさんに会いました。彼は社会人類学者です。今回の地震について、ジョクジャの人々はどんなコスモロジカルな解釈をしているのだろうかと尋ねました。これはとても微妙な問題です。今回の地震が単なる物理現象と思われているかというと、必ずしもそれだけではない。昔から、こういう災害は「カミ」あるいはそれに匹敵するものによる「怒り」であると捉えられてきたからです。特に、ムラピ山の噴火とともに、インド洋海岸近くでの地震を重ね合わせると、ジョクジャという街(あるいは宇宙)を形成しているコスモロジーとの関連を考えざるをえません。それはすなわち、場合によってはスルタン批判にもなりかねないのです。
シャイリンさんは、スルタンへの言及を慎重に避け、人々の噂として、「ジョクジャの人々は昨年からのムラピ山噴火のことばかり気にしているから、南海の女神であるロロ・キドゥルが嫉妬して暴れたのだ」という話を紹介しました。実は、前代の王であるハメンク・ブウォノ9世は、ムラピ山の守護神と特別な盟約を結び、それが現10世にまで尾を引いているという解釈です。僕はシャイリンさん以外にも、多くの人に、今回の地震の背景を聞いてみました。なかには、あからさまにアルンアルン広場の地下に駐車場を作ろうとするから、南北の神々が怒ったのだという人もあります。ただ、ある学者が、このように答えたのが印象的でした。「今回の地震の後、すぐにスルタンは、これは南北のカミガミというジャワ的なできごとではなくて、天のカミ(すなわちアッラー?)の決定だと述べた」というのです。その学者によれば、こういう言及は、スルタンにとっては、ジャワ的なものからイスラム的なものへという、大きな転換を強調していることになります。このあたり、部外者の僕などには容易に踏み込みかねる宗教的問題ですが、ジョクジャの人々のある種の関心になっているのは事実です。
黄昏の時間にプジョクスマンに行ってきました。ハメンク・ブウォノ9世とともに、ジョクジャの舞踊の最盛期をつくった天才舞踊家ロモサス(ロモ・サストロミンディプロ)が活躍していた民間舞踊団の本拠地です。ロモサスは90年代半ばに亡くなりましたが、遺志を受け継いで、舞踊の教育、上演がいまも定的的に行われています。ロモサスのパートナーであったブ・ティアがこの舞踊団の事実上の代表者であり、彼女自身が高名なダンサーであったことから、多くの弟子をもっています。プンドポの隣りにテントが張ってあって、そこに彼女は寝泊まりしているとのことですが、僕が行ったときには、奥の住居の整理をしていました。会っただけで、彼女はもう半泣きでした。彼女の寝室を見せてもらうと壁が激しく崩壊していて、ベッドの上には瓦礫が。えっ、ここに寝ていたのに、よく無事に・・・と言うと、ぐらぐらと来たときに、誰かが私の手を引いてくれて外に出られたのよ、と言います。それは誰だったんですかと尋ねると、人間じゃなかったといいます。う?ん・・・・。いずれにせよ、彼女自身は無事だったのですが、住居、プンドポ、楽屋、リハーサル室、事務室など、いっさいの建物が傾いていて、そのままでは使用不可能でした。スラバヤから「8月17日大学」の学生チームが来ていて、どうやら建築学科の学生らしく、いろいろアセスメントなどの手伝いをしていました。アジアの文化遺産建築研究のネットワークがあるらしく、今回の地震については東大の村松先生もチームに入っていることが分かりました。倉庫に塵をかぶって楽器が横たわっていましたが、幸いなことに大きな損傷はないようでした。しかし、汚れてしまった衣裳などはかなり痛手のようです。大きなガルーダ(鳥)の着ぐるみは、白い布を巻かれて、本当に息苦しそうでした。
ここの教育事業は、タマンブダヤ(文化センター)の一室を借りて再開しますが、プジョクスマンのプンドポで再開できるのはいつのことでしょうか。ジョクジャのなかで全壊や損壊を受けた重要建造物は数知れず、ここにまで手が差し伸べられるのは遠い先のように思われます。そういう意味では、日本での佐久間新さんのように、世界中のプジョクスマンの「卒業生」が力を合わせて支援をしなければならないでしょう。もちろん僕もその一翼を担うつもりであります。
だいぶ日も暮れかかっていましたが、傾いたプンドポの周囲で、子供たちがサッカーをしていました。ボールの跳ねる音、互いに交わす声は日常そのものでした。徐々にこういう風景を取り戻していかねばならないのです。
すっかり暮れてから、佐久間新さんの家に行きました。いつもは僕の定宿なのですが、今回は訪問だけ。隣との壁が完全に崩落していて、なんだか銭湯の女湯と男湯の境界がなくなったような(実際にはそんな現場に行ったことはないのですが)、照れくさい感じがしました。住居の壁には相当な亀裂が走り、ドアがうまく開かないところもあります。ここには、関西から芸術大学に留学中の西岡さん(マルガサリ)、川原さん(ふいご日和)が下宿していて、ちょっと彼女たちの話も聞きました。ふたりとも神戸の震災を知っていますから、最初は本当に怖かったそうです。水が出なくて、ソロにまで避難したり・・・。大学の方も建物がぐちゃぐちゃになってしまったので、授業は打ちきられ、9月から再開とのこと。もちろん、舞踊などの個人レッスンも再開されていません。なんともいえない状況ですね。マルガサリのメンバーで今夏からダルマシスワで留学する人がいるのですが、ジョクジャの ISIが希望だったところ、ソロのSTSI(芸術大学)に振り分けられました。短期的にはその方がいいかもしれません。しかし、ジョクジャの人々や大学が、どのように復興、再生していくのかということを、同じ空気を吸いながら体験するのも貴重だと思います。西岡さん、川原さんには、ありきたりですが、「頑張って!」と言いました。
いったんホテルに戻り、余力があったので、ジョクジャのもうひとつの王宮、パクアラマンに行きました。ここで35日に一回の定例コンサートがあるからです。地震があったけれど、ここではいつも通りのイベントがありました。ホテルから友人の車で送ってもらい、王宮についたのは午後10時。演奏は12時までなので、まだたっぷりとあります。門でおろしてもらい、ゆっくりとプンドポに歩いていくと、パクアラマン独特のふんわりとして透明感のある音がきこえてきました。なんだか海の底にいるようです。ゆらゆら揺れる海草やキラキラ光る海底の砂地から、碧い響きが泡粒のように立ちのぼっています。
演奏している人は、きっと追悼とかじゃなく、純粋に音楽に浸っているんだろうなと思いました。それこそが日常なんですね。プンドポに近づいていくと、クンダン(太鼓)のところで誰かが手を振っています。あ、トルストさんだ。彼はニコニコしながら、クンダンをたたき、そして僕に手を振っているのです。そこには、いつものトルストさんがいました。僕はとてもうれしくなって、大きく手を振りました。すると、他のプレーヤーもわさわさと手を振ってくるではありませんか。あんたら、いま演奏中なんでしょと思いながらも、こんな時間のありがたみがしっかり伝わってくるのです。
朝に友人に電話をして会いたいというと、今日は金曜日で礼拝日だから、午前中は会えないことが分かりました。なので、本の校正などをして時間を過ごしていると、サンティヨさん(ダンサー)とプリョ・ムスティコさん(ジョクジャカルタ州観光文化局)がホテルにやってきました。プリョさんは、数年前に京都府の招聘で文化財保護行政を半年にわたって研修し、その後も、京都府の職員とのつながりを持ち続けている人です。去年、ジョクジャカルタ州知事(ハメンク・ブウォノ10世)が京都府にガムラン一式を寄贈しましたが、それを陰で支えてくれたのがこの人です。ちなみに楽器は現在、立命館大学に委託され、その使い方については僕がアドバイザーになっています。
さて、彼らがやってきたのは、やはり被災関係の件です。彼らは、踊りなどを通じて、地震の被災者を支援したく、それで僕に相談したいとのことです。もちろん、僕はそのためにジョクジャに来たわけですから、さっそく話を始めました。そして、彼らの企画書を見ると・・・。なんと、コンサートを日本ですると書いてある。「えっ、ジョクジャでなくて、日本で?」。確かに、日本でもチャリティコンサートをするけれど・・・。彼らに尋ねると、日本に行って ngamen をするのだ、と。Ngamen というのは、路上で演奏して僅かな収益をあげてゆくストリートの音楽家のことです。しかも、日本に行く旅費は自分たちで工面するというのです。これにはびっくりしたし、心を打たれました。彼らの熱意を感じて、是非、日本側でも計画するからと答えました。プリョさんも含めて4名が来日します。まだ日程は未定ですが、「ガムランを救え!」の活動に組み入れたく思いました。
午後からは、ガジャマダ大学の建築学科の教員で、文化遺産の保全やエコツーリズムなどに力を注いでいるシータさんのオフィスを訪ねました。ジョクジャカルタ周辺にはボロブドゥールやプランバナンといった1000年以上前の史跡が世界遺産として有名ですが、シータさんにとっての遺産は、それだけではなく、例えばジョクジャ市内に散在する19?20世紀の建築(近代建築も含まれます)も含まれます。またそのような物質的遺産のみならず、非物質的、つまり踊りや音楽といった伝統的な上演芸術もそうですし、ジョクジャ周辺の村々で発展している工芸文化、つまりバティックや陶器、銀製品などもまた、村ごとひとつの文化財であると捉えています。なので、今回の地震は、それらを一挙に崩したという意味で、大変な出来事であったわけで、彼女はそれへの対応で超多忙な日々を送っています。大学とNGOのオフィスを兼ねた1軒家には、絶えず学生や記者が出入りし、まさに噴火状態でした。忙しいなか、1時間ほど時間を割いてもらって、彼女の活動や文化遺産の現状についてレクチャーを受けました。その時点で、彼女は18のプロジェクトを動かしていました。例えば、貴重な建造物の再生のために、1カ所ずつにプロジェクトを立ち上げ、それぞれの復興資金を申請するというものです。例えば、プジョクスマンの建物についてはオランダの財団に申請し、コタ・グデの古い建物にはアメリカに、というように。実に具体的できめ細かい活動ですが、それだけに労力はどれほど大変だろうかと推察されました。その全てをここで紹介できませんので、関心のある方は、www.jogjaheritage.org にアクセスしてください。英語バージョンもあります。シータさんは、むかしプジョクスマンで舞踊を習い、踊っていたそうで、そういう意味では建築だけではなく、広くジョクジャの文化財について射程を広げています。僕は彼女に、「ガムランを救え!」プロジェクトの説明をし、ジョクジャ側の対応メンバーになってほしいと言い、快諾をもらいました。もちろん、シータさんのパートナーであるアキさん(インドネシア総領事館勤務)が日本側のメンバーであることも言い添えて。
ホテルに戻ると、ISI(芸術大学)の情報記録学部(メディア・レカム)の教員が2名来ていました。エディアル・ルスリさんとパムンカスさんです。彼らは写真学科の教員で、被災の後、すぐに現場に入って写真を撮ったとのことです。それを日本に人に見せてほしいと言って、写真データを持ってきてくれました。パソコンで見ると、壊滅した村の全容が写っている空中写真もあります。パムンカスさんは、ジャワポストという新聞社のカメラマンもつとめ、ヘリコプターで回ったらしいのです。クレジットさえつけると、その写真を日本での展示や、メディアで使用しても大丈夫というので、ありがたく頂戴しました。全部で100枚程度ですが、その1枚1枚はかなりの迫力で、死体なども平気で写っていました。これも必ず日本の方々に見てもらいますと返事をしました。チャリティコンサートなどでの展示やプレゼンに、とてもインパクトがあると思います。
それから、ガジャマダ大学に行って、以前の学部長であり、日本でいえば経産省の副大臣を務めていたシャイリンさんに会いました。彼は社会人類学者です。今回の地震について、ジョクジャの人々はどんなコスモロジカルな解釈をしているのだろうかと尋ねました。これはとても微妙な問題です。今回の地震が単なる物理現象と思われているかというと、必ずしもそれだけではない。昔から、こういう災害は「カミ」あるいはそれに匹敵するものによる「怒り」であると捉えられてきたからです。特に、ムラピ山の噴火とともに、インド洋海岸近くでの地震を重ね合わせると、ジョクジャという街(あるいは宇宙)を形成しているコスモロジーとの関連を考えざるをえません。それはすなわち、場合によってはスルタン批判にもなりかねないのです。
シャイリンさんは、スルタンへの言及を慎重に避け、人々の噂として、「ジョクジャの人々は昨年からのムラピ山噴火のことばかり気にしているから、南海の女神であるロロ・キドゥルが嫉妬して暴れたのだ」という話を紹介しました。実は、前代の王であるハメンク・ブウォノ9世は、ムラピ山の守護神と特別な盟約を結び、それが現10世にまで尾を引いているという解釈です。僕はシャイリンさん以外にも、多くの人に、今回の地震の背景を聞いてみました。なかには、あからさまにアルンアルン広場の地下に駐車場を作ろうとするから、南北の神々が怒ったのだという人もあります。ただ、ある学者が、このように答えたのが印象的でした。「今回の地震の後、すぐにスルタンは、これは南北のカミガミというジャワ的なできごとではなくて、天のカミ(すなわちアッラー?)の決定だと述べた」というのです。その学者によれば、こういう言及は、スルタンにとっては、ジャワ的なものからイスラム的なものへという、大きな転換を強調していることになります。このあたり、部外者の僕などには容易に踏み込みかねる宗教的問題ですが、ジョクジャの人々のある種の関心になっているのは事実です。
黄昏の時間にプジョクスマンに行ってきました。ハメンク・ブウォノ9世とともに、ジョクジャの舞踊の最盛期をつくった天才舞踊家ロモサス(ロモ・サストロミンディプロ)が活躍していた民間舞踊団の本拠地です。ロモサスは90年代半ばに亡くなりましたが、遺志を受け継いで、舞踊の教育、上演がいまも定的的に行われています。ロモサスのパートナーであったブ・ティアがこの舞踊団の事実上の代表者であり、彼女自身が高名なダンサーであったことから、多くの弟子をもっています。プンドポの隣りにテントが張ってあって、そこに彼女は寝泊まりしているとのことですが、僕が行ったときには、奥の住居の整理をしていました。会っただけで、彼女はもう半泣きでした。彼女の寝室を見せてもらうと壁が激しく崩壊していて、ベッドの上には瓦礫が。えっ、ここに寝ていたのに、よく無事に・・・と言うと、ぐらぐらと来たときに、誰かが私の手を引いてくれて外に出られたのよ、と言います。それは誰だったんですかと尋ねると、人間じゃなかったといいます。う?ん・・・・。いずれにせよ、彼女自身は無事だったのですが、住居、プンドポ、楽屋、リハーサル室、事務室など、いっさいの建物が傾いていて、そのままでは使用不可能でした。スラバヤから「8月17日大学」の学生チームが来ていて、どうやら建築学科の学生らしく、いろいろアセスメントなどの手伝いをしていました。アジアの文化遺産建築研究のネットワークがあるらしく、今回の地震については東大の村松先生もチームに入っていることが分かりました。倉庫に塵をかぶって楽器が横たわっていましたが、幸いなことに大きな損傷はないようでした。しかし、汚れてしまった衣裳などはかなり痛手のようです。大きなガルーダ(鳥)の着ぐるみは、白い布を巻かれて、本当に息苦しそうでした。
ここの教育事業は、タマンブダヤ(文化センター)の一室を借りて再開しますが、プジョクスマンのプンドポで再開できるのはいつのことでしょうか。ジョクジャのなかで全壊や損壊を受けた重要建造物は数知れず、ここにまで手が差し伸べられるのは遠い先のように思われます。そういう意味では、日本での佐久間新さんのように、世界中のプジョクスマンの「卒業生」が力を合わせて支援をしなければならないでしょう。もちろん僕もその一翼を担うつもりであります。
だいぶ日も暮れかかっていましたが、傾いたプンドポの周囲で、子供たちがサッカーをしていました。ボールの跳ねる音、互いに交わす声は日常そのものでした。徐々にこういう風景を取り戻していかねばならないのです。
すっかり暮れてから、佐久間新さんの家に行きました。いつもは僕の定宿なのですが、今回は訪問だけ。隣との壁が完全に崩落していて、なんだか銭湯の女湯と男湯の境界がなくなったような(実際にはそんな現場に行ったことはないのですが)、照れくさい感じがしました。住居の壁には相当な亀裂が走り、ドアがうまく開かないところもあります。ここには、関西から芸術大学に留学中の西岡さん(マルガサリ)、川原さん(ふいご日和)が下宿していて、ちょっと彼女たちの話も聞きました。ふたりとも神戸の震災を知っていますから、最初は本当に怖かったそうです。水が出なくて、ソロにまで避難したり・・・。大学の方も建物がぐちゃぐちゃになってしまったので、授業は打ちきられ、9月から再開とのこと。もちろん、舞踊などの個人レッスンも再開されていません。なんともいえない状況ですね。マルガサリのメンバーで今夏からダルマシスワで留学する人がいるのですが、ジョクジャの ISIが希望だったところ、ソロのSTSI(芸術大学)に振り分けられました。短期的にはその方がいいかもしれません。しかし、ジョクジャの人々や大学が、どのように復興、再生していくのかということを、同じ空気を吸いながら体験するのも貴重だと思います。西岡さん、川原さんには、ありきたりですが、「頑張って!」と言いました。
いったんホテルに戻り、余力があったので、ジョクジャのもうひとつの王宮、パクアラマンに行きました。ここで35日に一回の定例コンサートがあるからです。地震があったけれど、ここではいつも通りのイベントがありました。ホテルから友人の車で送ってもらい、王宮についたのは午後10時。演奏は12時までなので、まだたっぷりとあります。門でおろしてもらい、ゆっくりとプンドポに歩いていくと、パクアラマン独特のふんわりとして透明感のある音がきこえてきました。なんだか海の底にいるようです。ゆらゆら揺れる海草やキラキラ光る海底の砂地から、碧い響きが泡粒のように立ちのぼっています。
演奏している人は、きっと追悼とかじゃなく、純粋に音楽に浸っているんだろうなと思いました。それこそが日常なんですね。プンドポに近づいていくと、クンダン(太鼓)のところで誰かが手を振っています。あ、トルストさんだ。彼はニコニコしながら、クンダンをたたき、そして僕に手を振っているのです。そこには、いつものトルストさんがいました。僕はとてもうれしくなって、大きく手を振りました。すると、他のプレーヤーもわさわさと手を振ってくるではありませんか。あんたら、いま演奏中なんでしょと思いながらも、こんな時間のありがたみがしっかり伝わってくるのです。
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