twitterでのつぶやきをはさみながらの変則日記。恥の上塗りのようなものですが・・・。
月に2回、たんぽぽの家へワークショップに行っている。昼は障がいのあるメンバーとのダンス。毎回、特になにも決めずに行き当たりばったりの90分間。この日は、車いすのふたりともうひとりと僕の4人、スタッフも2名参加、ひとりは音楽を流したり踊ったり、もうひとりはビデオを撮ったり踊ったり。
たんぽぽの家でWS。車いす2台、ガムラン2台、グランドピアノで即興。ささやきから絶叫まで声もたくさん使う。Yさんとはタイミングも声色もほんとに息のあったやり取りになる。僕は彼女の気配を感じるし、彼女は僕をよく観察している。「私もふたりで舞台をやりたい。」と即興の後で言ってくれた。
少しずつからだが動きにくくなっているYさんだが、思い切った動きが得意で、狂ったように叫ぶ世界と平常の世界を自由に行き来できる人。そろそろ二人でなにかやる時期かな、と僕も思っているところ。
この日は、前に何度かワークショップをした堺の高齢者施設を3月いっぱいで辞めた細川鉄平さんが遊びにきた。WS後のミーティングに参加してもらった。夜のWSの前に食事をした。大学時代に先輩に連れられていった豊中のトンカツ屋へ。懐かしい場所で懐かしい記憶がよみがえった。車の中では、鉄平さんのあたらしい出発の話しを聞いた。この人も不器用に生きている。
鉄平さんとトンカツ屋へ。どうして踊るようになったかという20年前の話しを、20年ぶりに行った店でする。いつもはしない当時の女の子の話しも。2月の「うまれる」公演の後、牛丼屋でひとりで盛り上がり、その後、1週間職場でも熱血施設長になったと感想を聞かせてくれた。誰かに話したかったと。
仕事と生活を分けることは出来ないと、施設長を辞めた彼は、自分の哲学を貫ける施設を準備中。介護する側とされる側という二項対立を作らない施設。シンプルな施設で関係性を大切にするということかな。でも、奥さんとは対立中とか、焼きそばの作り方で。介護って、生きているとみんな関わることよね。
この前の日に、家でブナと遊んでいた時にメガネが壊れた。そのことを振り返りながら、たんぽぽでのWSでのダンスことも振り返っている。我ながら、わかりにくいつぶやきである。
もがれたバッタの足のようなメガネのつるが食卓の上に。おとといブナに四の字固めをしようと外してじゅうたんに置いたところへイウィンさんが洗濯物を持ってやってきた。そうです、置いた方が悪いんですけど、足の裏に感じた瞬間に力を抜いて・・・、とは思うけど、そんなことで怒ることはできない。
今日は世界が傾いている。ついてくるかと言うとうんと言うのでのんびりしていると、真っ赤になって怒りだして、弁当はまだかと。しょうがないのパパッと作ると、あっコロッケや、と。昨晩のWSでいつものようにYさんが雄叫びを上げて体当たりをしてきた。そこからのダンス。
傾いたメガネがよくないことは、メガネが商標のKジマさんでなくても分かる。輪ゴムで留めてるとまたいつもおしゃれなNビルさんに怒られる。あきらめて新調するか。昨晩の映像、YさんはWSに毎回お金を払って参加している。
と書いていると、鉄平さんのつぶやきがタイムラインに登場するので、リアクション。
鉄平
昨日は本当にありがとうございました!沢山の話を聞かせて頂き、また聞いて頂き嬉しかったです!ワークショップもあの頃のワクワクそのままでした。まだまだ遊んで下さい!ちなみに新しいアカウントです。よろしくお願いします!
佐久間
いい時間でした。からだを張って、止める必要があることもある。からだを合わせ続けているうちに、僕も段々とYさんのからだの声が聞こえるようになってきた気がします。関係するダンス、自分を超えるダンス、限界は無い。
佐久間
今度はカエルナイトかな。ああ、もちろん木曜ナイトもいつでもどうぞ!愛の深い奥様にもよろしく、僕も肉は、もちろん最後に切ります。
カエルの声が最高になる頃、一晩中鳴き声を聞く会をしている。鉄平さんは、去年参加してくれたのだ。そうこうしていると、一緒に夜のだれでも参加できるWSをしている本間直樹さんもつぶやいている。
本間
昨晩は不思議だった。そこで起きていることすべてが音楽に聴こえ、それに身を沿わせること以外、なにもすることがないかのような、そういう時間だった。
佐久間
流れる時間が手からこぼれ落ちて砂の上で乾いてしまうのではなく、流れの手触りを味わいながら、伸びた帯をたぐり寄せるようなダンスでした。
本間
行き帰りの佐久間新さんの運転もなんともいえない心地よさだった。彼のダンスのように無駄がなく流暢で、それでいて遊び心に溢れ、偶然を楽しみ、そして流れる。彼はダンサーに生まれ変わる前からライダーだった。
佐久間
ありがとう。昨日は、僕もいつもよりそんな風に運転した気がする。
この日は、たんぽぽの家のスタッフ3名、障がいのあるアーティストYさん、鉄平さん、本間さん、佐久間が参加した。岡部さんが考案した「服に着られるダンス」をきっかけに、行き当たりばったりで1時間ほど即興をしたのだった。
このつぶやきに刺激されて、20代にやっていたバイク便のことを書いてみたくなった。
20代前半に3年くらいバイク便をしていた。500キロ以上や、阪神高速に10回以上乗る日もあれば、船場のオフィス街を100件以上回る日もあった。無数に走る道路にメッセージが見えるようになってきた。街にデッサンするような気分でバイクを走らせた。いくつかある選択肢を常にキープしながら。
大きく移動する時は伸びのある線を引くように幹線道を使ったが、単純な線は美しくなかった。川や線路や高架は街を分断していたが抜け道の隠し場所だった。いけずな一方通行や信号をどう欺き返すか、抜け道を行く車のずる賢い顔、轍に刻まれた近道の答え、関所のような必ず止まる交差点、そこから、
次の到達地点などを瞬時に判断しながら、トラックの動きを潜望鏡にして渋滞の流れを読み、タンクの上の地図や無線も参考にし即興のデッサンをする。頭には幹線道路と蒲生4とか緑3とかの結節点、自動的に行ける主要な行き先のルートが入っている。無線で仕事が入ると、荷受け場所まで最短ルートと時間
を計算する。朝から走りっぱなしのこともあったが、時には木陰で背中の箱にもたれて缶コーヒーで煙草をぷかり。休憩場所探しの名人のBは箱にウサギを連れて帰ってきたこともあった。アメリカ領事館前から青信号スタートでどこまで行けるかなんてバカな競争もした。疾走し続けるしかない日々だった。
シートの下に歯ブラシとタオルを入れたベチャ引きのように、僕らもひとりで街を流したが、週末競馬新聞の工場には鳩のように集まった。群れて走る時は戦闘機の飛行機雲をトレースするようにコーナーを曲がっていった。今でもバックミラーに映るのがバイク便ライダーかそうでないかはすぐ分かる。力が
抜けてるのだ。きっと寝ながら乗ってたBはカーブに張り付いていた。Nはミズスマシのようだったし、ギタリストのMの肘使いはかっこよかった。どんな単車もハーレーになった。自分じゃなくバイクを走らせる。膝や足首や足の裏でバイクに話しかける。慣性、遠心力が作る見えないベクトルを感じながら。
大学に行く気がなくなり、バイトをするようになった。それまでの人生で出会わなかったような人たちと出会った。危険と隣り合わせの感覚にしびれるながら、この先どうなるのだろうと言う不安を振り払うようにひたすら飛ばした。この時の経験は、今の僕の即興ダンスに影響を与えている。まあ、元々、非常事態とかが好きだったんだろう。焦りながらも最善策を考えわくわくしている瞬間が。この仕事を辞める半年前、ジャワへ留学する年に、阪神大震災が起こり、ほんとの非常事態に直面した。その日から、毎日神戸と大阪とを往復した。はじめの2ヶ月くらいは、信号も全くなく、交通法規的には無法地帯だった。
バイクの疾走感記憶が、ブナと一緒に見た映画へとつながって行く。
ブナとブタのヒコーキ乗りの映画を見た。空中を飛ぶ姿に刺激を受けた。美しかったが、何か整理されすぎている気がした。絵にすることで抽象化するからだろうか。いつかどこかで見たシーンが心地よさを作るけれど。上空の一筋の白い線が飛行機であることは、8歳のブナでも予感した、整理、典型、抽象。
アニメとダンスも多いに関係している。これは、機会を改めて。
いっぱいつぶやいたので、ちょっと試みにやってみた日記です、読みにくかったかもしれません、ごめんさない。
月に2回、たんぽぽの家へワークショップに行っている。昼は障がいのあるメンバーとのダンス。毎回、特になにも決めずに行き当たりばったりの90分間。この日は、車いすのふたりともうひとりと僕の4人、スタッフも2名参加、ひとりは音楽を流したり踊ったり、もうひとりはビデオを撮ったり踊ったり。
たんぽぽの家でWS。車いす2台、ガムラン2台、グランドピアノで即興。ささやきから絶叫まで声もたくさん使う。Yさんとはタイミングも声色もほんとに息のあったやり取りになる。僕は彼女の気配を感じるし、彼女は僕をよく観察している。「私もふたりで舞台をやりたい。」と即興の後で言ってくれた。
少しずつからだが動きにくくなっているYさんだが、思い切った動きが得意で、狂ったように叫ぶ世界と平常の世界を自由に行き来できる人。そろそろ二人でなにかやる時期かな、と僕も思っているところ。
この日は、前に何度かワークショップをした堺の高齢者施設を3月いっぱいで辞めた細川鉄平さんが遊びにきた。WS後のミーティングに参加してもらった。夜のWSの前に食事をした。大学時代に先輩に連れられていった豊中のトンカツ屋へ。懐かしい場所で懐かしい記憶がよみがえった。車の中では、鉄平さんのあたらしい出発の話しを聞いた。この人も不器用に生きている。
鉄平さんとトンカツ屋へ。どうして踊るようになったかという20年前の話しを、20年ぶりに行った店でする。いつもはしない当時の女の子の話しも。2月の「うまれる」公演の後、牛丼屋でひとりで盛り上がり、その後、1週間職場でも熱血施設長になったと感想を聞かせてくれた。誰かに話したかったと。
仕事と生活を分けることは出来ないと、施設長を辞めた彼は、自分の哲学を貫ける施設を準備中。介護する側とされる側という二項対立を作らない施設。シンプルな施設で関係性を大切にするということかな。でも、奥さんとは対立中とか、焼きそばの作り方で。介護って、生きているとみんな関わることよね。
この前の日に、家でブナと遊んでいた時にメガネが壊れた。そのことを振り返りながら、たんぽぽでのWSでのダンスことも振り返っている。我ながら、わかりにくいつぶやきである。
もがれたバッタの足のようなメガネのつるが食卓の上に。おとといブナに四の字固めをしようと外してじゅうたんに置いたところへイウィンさんが洗濯物を持ってやってきた。そうです、置いた方が悪いんですけど、足の裏に感じた瞬間に力を抜いて・・・、とは思うけど、そんなことで怒ることはできない。
今日は世界が傾いている。ついてくるかと言うとうんと言うのでのんびりしていると、真っ赤になって怒りだして、弁当はまだかと。しょうがないのパパッと作ると、あっコロッケや、と。昨晩のWSでいつものようにYさんが雄叫びを上げて体当たりをしてきた。そこからのダンス。
傾いたメガネがよくないことは、メガネが商標のKジマさんでなくても分かる。輪ゴムで留めてるとまたいつもおしゃれなNビルさんに怒られる。あきらめて新調するか。昨晩の映像、YさんはWSに毎回お金を払って参加している。
と書いていると、鉄平さんのつぶやきがタイムラインに登場するので、リアクション。
鉄平
昨日は本当にありがとうございました!沢山の話を聞かせて頂き、また聞いて頂き嬉しかったです!ワークショップもあの頃のワクワクそのままでした。まだまだ遊んで下さい!ちなみに新しいアカウントです。よろしくお願いします!
佐久間
いい時間でした。からだを張って、止める必要があることもある。からだを合わせ続けているうちに、僕も段々とYさんのからだの声が聞こえるようになってきた気がします。関係するダンス、自分を超えるダンス、限界は無い。
佐久間
今度はカエルナイトかな。ああ、もちろん木曜ナイトもいつでもどうぞ!愛の深い奥様にもよろしく、僕も肉は、もちろん最後に切ります。
カエルの声が最高になる頃、一晩中鳴き声を聞く会をしている。鉄平さんは、去年参加してくれたのだ。そうこうしていると、一緒に夜のだれでも参加できるWSをしている本間直樹さんもつぶやいている。
本間
昨晩は不思議だった。そこで起きていることすべてが音楽に聴こえ、それに身を沿わせること以外、なにもすることがないかのような、そういう時間だった。
佐久間
流れる時間が手からこぼれ落ちて砂の上で乾いてしまうのではなく、流れの手触りを味わいながら、伸びた帯をたぐり寄せるようなダンスでした。
本間
行き帰りの佐久間新さんの運転もなんともいえない心地よさだった。彼のダンスのように無駄がなく流暢で、それでいて遊び心に溢れ、偶然を楽しみ、そして流れる。彼はダンサーに生まれ変わる前からライダーだった。
佐久間
ありがとう。昨日は、僕もいつもよりそんな風に運転した気がする。
この日は、たんぽぽの家のスタッフ3名、障がいのあるアーティストYさん、鉄平さん、本間さん、佐久間が参加した。岡部さんが考案した「服に着られるダンス」をきっかけに、行き当たりばったりで1時間ほど即興をしたのだった。
このつぶやきに刺激されて、20代にやっていたバイク便のことを書いてみたくなった。
20代前半に3年くらいバイク便をしていた。500キロ以上や、阪神高速に10回以上乗る日もあれば、船場のオフィス街を100件以上回る日もあった。無数に走る道路にメッセージが見えるようになってきた。街にデッサンするような気分でバイクを走らせた。いくつかある選択肢を常にキープしながら。
大きく移動する時は伸びのある線を引くように幹線道を使ったが、単純な線は美しくなかった。川や線路や高架は街を分断していたが抜け道の隠し場所だった。いけずな一方通行や信号をどう欺き返すか、抜け道を行く車のずる賢い顔、轍に刻まれた近道の答え、関所のような必ず止まる交差点、そこから、
次の到達地点などを瞬時に判断しながら、トラックの動きを潜望鏡にして渋滞の流れを読み、タンクの上の地図や無線も参考にし即興のデッサンをする。頭には幹線道路と蒲生4とか緑3とかの結節点、自動的に行ける主要な行き先のルートが入っている。無線で仕事が入ると、荷受け場所まで最短ルートと時間
を計算する。朝から走りっぱなしのこともあったが、時には木陰で背中の箱にもたれて缶コーヒーで煙草をぷかり。休憩場所探しの名人のBは箱にウサギを連れて帰ってきたこともあった。アメリカ領事館前から青信号スタートでどこまで行けるかなんてバカな競争もした。疾走し続けるしかない日々だった。
シートの下に歯ブラシとタオルを入れたベチャ引きのように、僕らもひとりで街を流したが、週末競馬新聞の工場には鳩のように集まった。群れて走る時は戦闘機の飛行機雲をトレースするようにコーナーを曲がっていった。今でもバックミラーに映るのがバイク便ライダーかそうでないかはすぐ分かる。力が
抜けてるのだ。きっと寝ながら乗ってたBはカーブに張り付いていた。Nはミズスマシのようだったし、ギタリストのMの肘使いはかっこよかった。どんな単車もハーレーになった。自分じゃなくバイクを走らせる。膝や足首や足の裏でバイクに話しかける。慣性、遠心力が作る見えないベクトルを感じながら。
大学に行く気がなくなり、バイトをするようになった。それまでの人生で出会わなかったような人たちと出会った。危険と隣り合わせの感覚にしびれるながら、この先どうなるのだろうと言う不安を振り払うようにひたすら飛ばした。この時の経験は、今の僕の即興ダンスに影響を与えている。まあ、元々、非常事態とかが好きだったんだろう。焦りながらも最善策を考えわくわくしている瞬間が。この仕事を辞める半年前、ジャワへ留学する年に、阪神大震災が起こり、ほんとの非常事態に直面した。その日から、毎日神戸と大阪とを往復した。はじめの2ヶ月くらいは、信号も全くなく、交通法規的には無法地帯だった。
バイクの疾走感記憶が、ブナと一緒に見た映画へとつながって行く。
ブナとブタのヒコーキ乗りの映画を見た。空中を飛ぶ姿に刺激を受けた。美しかったが、何か整理されすぎている気がした。絵にすることで抽象化するからだろうか。いつかどこかで見たシーンが心地よさを作るけれど。上空の一筋の白い線が飛行機であることは、8歳のブナでも予感した、整理、典型、抽象。
アニメとダンスも多いに関係している。これは、機会を改めて。
いっぱいつぶやいたので、ちょっと試みにやってみた日記です、読みにくかったかもしれません、ごめんさない。
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2012/04/09(月) 02:50 | まとめwoネタ速suru
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