Gamelan Marga Sari -Blog-

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つながっているもの
肉体系バイトで京都の山奥にいるときに、大震災が起こった。僕のまわりでは誰もそれを感じなかった。帰りの車を運転しながら、AMラジ オに耳を澄ませた。それから連日、テレビやインターネットでおびただしい数の映像やコメントをあびた。こころがすこしずつふさいでいくようでもあり、ネット上でなにかを表明することに対する無力感とも腹立ちとも焦燥とも言えない感覚が渦巻いていくような感じでもあった。

それでも、なにかこういった出来事が起こったときでも、あるいはそういうときにこそ、ダンスやコンサートはやり続けなければならないという思いは前から持っている。恐れたり、悲しんだり、おののいたり、憤ったり、戸惑ったり、困ったり、そういったことがすべて表現だし、表現を通じて、人は共感したり、つながったりできるんだろうし。僕にとっては、そういった表現やコミュニケーションがダンスだ。もちろん、いろんな事情で、舞台でできないこともあるし、生死の境目でそれどころではない瞬間もあるだろう。でも、生死を分けるまさにその瞬間にも、僕は踊っているだろうし、誰しもが何かを切実に表現しているんじゃないだろうか。

災害はまだ続いている。避難生活も原発事故も。その中で、僕は何をしていくのだろう。障碍のある人や老人や日雇い労働者とダンスをする僕は、これから何をしていくのだろう。どんなダンスをしていくのだろう。僕は、どうしてそういった現場に行ってダンスをしているのだろう。そこへ行くのが楽しいから。そういった場に、ほんとにスリリングなダンスがたちあらわれることがあるから。その場にいあわせる人、動物、植物、空気や土地となんとかしてコミュニケーションを取りたい、取れなくってもそのことを確認したいと思うから。からだでコミュニケーションしようとするところには、ダンスが生まれてくる。そして、ダンスという表現を通じて、そこにいない人とも、離れた土地にあるものとも、あるいはもっと大きなものとも、あるいは小さなものとも、もしかしたら時間をも超えて、つながれる可能性があると感じているから。こんな非常事態の時だからこそ、必死でコミュニケーションする中からダンスがたちあらわれる気がする。いろんな現場に出て行って踊りたい。そうやって踊ることによって、みんながつながっていけば、何かが生まれるかもしれない。ダンスして、考えて、話し合いながら、またダンスして。

被災した人はほんとに大変だっただろうし、これからもまだまだ大変だろう。津波から、生死の分け目を越えて奇跡的に助かった人が避難所で亡くなっていくという悲劇以上の悲劇もおこっている。当面は、物資や医療の援助が必要になるだろうけど、遠くにいる僕にできることは少ない。もどかしい、罪悪感にも近い思いにかられている人がたくさんいると思う。2006年のジャワ島中部地震の時は、僕が世話になっているプジョクスマン舞踊団が被災した。とにかく自分の舞踊団が壊れてしまったので、とっさの判断で動き出した。そして、みんなで協力していろんなチャリティ公演を行ったり、いろんな方々に義援金をいただいたりして、舞踊団の劇場の修復という直接的で物理的な支援に関わった。その際、多くの方々にとてもお世話になった。おかげで舞踊団の本拠地は修復され、今では伝統が息ずく場所で、こどもたちや仲間たちが、ずっと伝わってきた舞踊を学んだり、発表したりできるように復活した。みなさんに助けてもらってありがたかったし、ジャワのみんなの力になれてうれしかった。今回は、どんな関わりができるか。

原発の事故が起こっている。まだまだ広がりそうだ。いま、起こっていることには、いま起こる理由があるんだろうと思う。世界中で拡大しつづける経済や消費活動を支える電力。僕自身も、もちろんその恩恵にあずかっている。でも、この生活をなりたたせるために、担保に入れているものがあるということにあまりにも無自覚だったと思う。原発を動かしている燃料が、人間の、生物の、本能である子孫を残していく働きを破壊してしまう力をもっていることが、なにを意味しているのか。いきものは、自分の命が絶えても、自分の分身である遺伝子が生き続けることに希望を持っている。あるいは自分の遺伝子でなくとも、自分と関わったいきものが生きながらえることによって、そのいきものの記憶やからだの中にある自分が生きながらえていくことに希望を持っているのだと思う。命はつながっていく、つないでいかなければならないものだ。ジャワ舞踊には、バニュ・ミリ(水が流れる)というコンセプトがある。伝統舞踊だって、脈々と流れる水のように、ずっとずっといろんな人のからだを通り抜けて生き続けている。これを学んだ人は、次に伝えていかなければならない、というか伝えたくなってしまう。つながっていくことで舞踊も自分も生き続けていく。舞踊は数百年か数千年かもしれないが、もっともっと長い時の流れ中で、つながっているものがたくさんある。

もはや欠かすことができなくなっている、経済や生活に否応無く組み込まれている原発が、これだけ増えてしまったことの責任は、僕にもある。その恩恵にあずかったきたわけだから。でも、いまこの危機を目の前にして、僕らは否応無く、これからどうして行くのかという決断を迫られている。もしかしたら、自分たちの将来を担保に入れてでも、いまの社会システムを成り立たせていくことが大切だと考える人が大半を占めるのかもしれない。でも、そうだとするならな、それなりの覚悟を持って、細心の注意を払って、自分たちの生命を少しでも長続きするような知恵を生み出す必要があるだろう。原発を徹底的に見直す。あるいは、社会のシステムをゆるやかにシフトさせて、もう少し持続可能なエネルギーを目指すと考える人もいるだろう。僕もこの方がずいぶんいいと思うけれど。しかしこっちにも大変なことは多いだろう。どのくらい生活を変えるのか、どのくらいリサイクルできるのか、どのくらい先まで見通して考えるのか。自然エネルギーが本当に可能なのかどうか。みんなの利害をどう調整するのか。しかし、放射能の汚染を目の前にして、というかそのただ中で、もはや推進や反対のイデオロギーの対立している段階ではない。とにかくみんなでテーブルについて、具体的に動き始めなければならないタイムリミットが来ているんじゃないだろうか。なんだか大風呂敷を広げてしまったけれど、いまも不穏なニュースが流れ続けている。

とにかく僕は、いつでも、どこでも、だれとでも踊り続けるしかない。
さてさて、日記の続きへ続く。
(佐久間新)

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