『桃太郎』は音楽、舞踊、演劇の三要素からなる舞台です。自らの身体をどのように舞台上で表現するか、という問いは、その三つの要素のうち全てに関連しています。
一見縁の無さそうな音楽においてさえ、身体は重要な役割を果たします。同一の舞台で全てのパフォーマンスがなされる『桃太郎』では、演奏者らも、個々の楽器に対する身体を通じた関わり方を常に意識しながら演奏に臨んでいます。さらに、演劇は言葉と身体とから、舞踊に至っては踊り手の身体そのものから、まさに「身一つ」で成り立っているといっていいでしょう。
一見縁の無さそうな音楽においてさえ、身体は重要な役割を果たします。同一の舞台で全てのパフォーマンスがなされる『桃太郎』では、演奏者らも、個々の楽器に対する身体を通じた関わり方を常に意識しながら演奏に臨んでいます。さらに、演劇は言葉と身体とから、舞踊に至っては踊り手の身体そのものから、まさに「身一つ」で成り立っているといっていいでしょう。
各場で演劇・舞踊による表現を用いた『桃太郎』を第一場から順に作り上げていく過程で、自ずと見えてきたのはその収束点をどのような形にするかという問題でした。すなわち第五場の在り方です。
『桃太郎』第五場は様々な見方ができます。静寂でありながら細かな振動に満ち、ただ一人登場する鬼は第四場の混沌の余韻を残す存在でありながら、新たに純化されたものにも見えます。そのゆっくりとした動きに見る者の目は引き付けられますが、一瞬一瞬の静止の集合であるかのようなその動きの中には無限大の表現が詰まっています。ほんの僅かな体の捻り、指先の動き、足の角度。はりつめたような空気の中で、それをどうするかという自由は全て踊り手に委ねられることになります。そこに身体表現の本質を見ることができます。
同様のことは、劇中の何気ないシーンに対しても言えます。例えば、太郎が鬼ヶ島に行くにあたって一人でトレーニングを行う短いシーンがありますが、そこでの体の動かし方もその一例です。ここは基本的にテンポと勢いが重要なシーンではあるのですが、しかし、例えば空中に蹴りを入れたときの足首の角度一つで全く見え方が異なってくることから、単に勢い任せにするわけにはいきません。爪先を伸ばすか、踵をつき出すか、脚を上段に構えるか中段に構えるか。それによって身体の形が変わり、見る側には強そうにも弱そうにも、格闘技にも喧嘩殺法にも見え、その可能性を幾通りと数え上げることはできません。
そのような無限の可能性を、より厳密に追及するための一つの表現の形が第五場だと考えています。ここへ至るまでの太郎たちの道程、積み重ねられた世界観、それら全てが結晶し止揚する第五場で一体どのようなパフォーマンスが可能か…それはマルガサリ版『桃太郎』そのものがどのような作品であるのかにほぼ一致する問いかけです。
マルガサリ版「桃太郎」全5場
2007年8月21(火)?22日(水) 19:00開演(18:30開場)
@一心寺シアター倶楽
チケットご予約は コチラ
『桃太郎』第五場は様々な見方ができます。静寂でありながら細かな振動に満ち、ただ一人登場する鬼は第四場の混沌の余韻を残す存在でありながら、新たに純化されたものにも見えます。そのゆっくりとした動きに見る者の目は引き付けられますが、一瞬一瞬の静止の集合であるかのようなその動きの中には無限大の表現が詰まっています。ほんの僅かな体の捻り、指先の動き、足の角度。はりつめたような空気の中で、それをどうするかという自由は全て踊り手に委ねられることになります。そこに身体表現の本質を見ることができます。
同様のことは、劇中の何気ないシーンに対しても言えます。例えば、太郎が鬼ヶ島に行くにあたって一人でトレーニングを行う短いシーンがありますが、そこでの体の動かし方もその一例です。ここは基本的にテンポと勢いが重要なシーンではあるのですが、しかし、例えば空中に蹴りを入れたときの足首の角度一つで全く見え方が異なってくることから、単に勢い任せにするわけにはいきません。爪先を伸ばすか、踵をつき出すか、脚を上段に構えるか中段に構えるか。それによって身体の形が変わり、見る側には強そうにも弱そうにも、格闘技にも喧嘩殺法にも見え、その可能性を幾通りと数え上げることはできません。
そのような無限の可能性を、より厳密に追及するための一つの表現の形が第五場だと考えています。ここへ至るまでの太郎たちの道程、積み重ねられた世界観、それら全てが結晶し止揚する第五場で一体どのようなパフォーマンスが可能か…それはマルガサリ版『桃太郎』そのものがどのような作品であるのかにほぼ一致する問いかけです。
マルガサリ版「桃太郎」全5場
2007年8月21(火)?22日(水) 19:00開演(18:30開場)
@一心寺シアター倶楽
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