2.野村誠さんとマルガサリ?常に更新される作品
『桃太郎』には、通常の意味での脚本家、作曲家、振付家、演出家は存在しません。音楽のみならず、台詞や振り付けなど、その細部にいたるまでほとんどが共同創作によって作られています。こうした共同創作のエッセンスをマルガサリに教えてくれたのはやはり野村誠さんでした。
例えば、第1場の音楽は、野村さんの考案したリレー方式の共同作曲の手法、「将棋作曲」によってできあがった曲がもとになっています。村の情景を描く第2場では、音楽というよりもむしろ村の「音風景」が浮かび上がりますが、そこに野村さんがマルガサリのために作った「せみ」という作品の一部が引用されたりもします。お芝居が中心となる第3場では、太郎・犬・猿・雉それぞれのキャラクターを表現する音楽が登場します。これらは、役を演じるキャスト本人が出したアイデアをもとに、野村さんとマルガサリで肉付けがなされました。そして第4場は、音楽も踊りもほとんどすべて「即興」によって演じられています。それぞれが感覚を研ぎすませて音と動きをつくりだし、たがいに対話をするかのように一瞬ごとに音楽と踊りを変化させていきます。最終場でも、やはり将棋作曲が重要な役割を演じました。
『桃太郎』には、通常の意味での脚本家、作曲家、振付家、演出家は存在しません。音楽のみならず、台詞や振り付けなど、その細部にいたるまでほとんどが共同創作によって作られています。こうした共同創作のエッセンスをマルガサリに教えてくれたのはやはり野村誠さんでした。
例えば、第1場の音楽は、野村さんの考案したリレー方式の共同作曲の手法、「将棋作曲」によってできあがった曲がもとになっています。村の情景を描く第2場では、音楽というよりもむしろ村の「音風景」が浮かび上がりますが、そこに野村さんがマルガサリのために作った「せみ」という作品の一部が引用されたりもします。お芝居が中心となる第3場では、太郎・犬・猿・雉それぞれのキャラクターを表現する音楽が登場します。これらは、役を演じるキャスト本人が出したアイデアをもとに、野村さんとマルガサリで肉付けがなされました。そして第4場は、音楽も踊りもほとんどすべて「即興」によって演じられています。それぞれが感覚を研ぎすませて音と動きをつくりだし、たがいに対話をするかのように一瞬ごとに音楽と踊りを変化させていきます。最終場でも、やはり将棋作曲が重要な役割を演じました。
作曲家と演奏家の関係を料理にたとえるならば、通常は、作曲家が書いた音楽のレシピを演奏家がそのまま料理する、ということになるでしょう。しかし野村さんのレシピには音の分量も、場合によっては音楽の材料も書かれていませんから、演奏者自身がどうしたらおいしく作れるか考えながら、材料となる楽器選びからする楽しさを味わうことができます。
これは、最も効率の悪い作り方かもしれません。練り上げられながらも、音楽は常に変化し続けるため、台本や楽譜の最終稿も作れません。時間もかかります。また、毎回の演奏も楽譜として残されないために、記憶をたよりにするほかありません。音楽は少しも休むことなく、さらに微妙な変化を続けていきます。
この作り方では、何度も何度も演奏を繰り返しながら、流れを体にいれる必要があります。しかし、もし途中で前にやったのとは違う方向に音楽が動き出したとしても、途中でやめたり、「やり直し」になることはありません。新しく訪れた流れを受け入れ、そこに生まれる新たなインスピレーションを感じながら、まだ見たことのない流れを作っていきます。このようなプロセスを重視する手法をとると、時間はかかっても、演奏するたびごとに作品が演奏者の体の一部となっていく感覚が得られます。それはまさに自分たちの血肉から出たものであると演奏者一人一人が感じられ、それゆえ演奏者の身体と演奏が強烈に響き合うのです。
即興の場面は、どうなるのか終わってみるまで予測がつきません。しかし、意外に思われるかもしれませんが、ジャワの古典音楽も初めはこのようにしてできあがってきたのではないかと言われることがあります。私たちが現在ジャワで聴くことができるガムランの古典音楽は、ほぼ完成された形式で、実に多くのルールや定型に則っています。しかし、初めからそのような姿ではなかったはずです。もちろん、『桃太郎』でマルガサリが奏でるような、毎回姿が大きく変わるような即興ではなかったでしょう。しかし、ジャワの演奏者たちの様々な思いつきが即興という形になって、その時々の演奏を彩っていたのではないでしょうか。今の古典音楽の中に、その歴史がゆっくりと積み重なった結果が凝縮されているように、私たちの音楽作りもまた、長い時間をかけてガムラン音楽の新しい地層となっていくことを願っています。
マルガサリ版「桃太郎」全5場
2007年8月21(火)?22日(水) 19:00開演(18:30開場)
@一心寺シアター倶楽
チケットご予約は コチラ
これは、最も効率の悪い作り方かもしれません。練り上げられながらも、音楽は常に変化し続けるため、台本や楽譜の最終稿も作れません。時間もかかります。また、毎回の演奏も楽譜として残されないために、記憶をたよりにするほかありません。音楽は少しも休むことなく、さらに微妙な変化を続けていきます。
この作り方では、何度も何度も演奏を繰り返しながら、流れを体にいれる必要があります。しかし、もし途中で前にやったのとは違う方向に音楽が動き出したとしても、途中でやめたり、「やり直し」になることはありません。新しく訪れた流れを受け入れ、そこに生まれる新たなインスピレーションを感じながら、まだ見たことのない流れを作っていきます。このようなプロセスを重視する手法をとると、時間はかかっても、演奏するたびごとに作品が演奏者の体の一部となっていく感覚が得られます。それはまさに自分たちの血肉から出たものであると演奏者一人一人が感じられ、それゆえ演奏者の身体と演奏が強烈に響き合うのです。
即興の場面は、どうなるのか終わってみるまで予測がつきません。しかし、意外に思われるかもしれませんが、ジャワの古典音楽も初めはこのようにしてできあがってきたのではないかと言われることがあります。私たちが現在ジャワで聴くことができるガムランの古典音楽は、ほぼ完成された形式で、実に多くのルールや定型に則っています。しかし、初めからそのような姿ではなかったはずです。もちろん、『桃太郎』でマルガサリが奏でるような、毎回姿が大きく変わるような即興ではなかったでしょう。しかし、ジャワの演奏者たちの様々な思いつきが即興という形になって、その時々の演奏を彩っていたのではないでしょうか。今の古典音楽の中に、その歴史がゆっくりと積み重なった結果が凝縮されているように、私たちの音楽作りもまた、長い時間をかけてガムラン音楽の新しい地層となっていくことを願っています。
…つづく…
マルガサリ版「桃太郎」全5場
2007年8月21(火)?22日(水) 19:00開演(18:30開場)
@一心寺シアター倶楽
チケットご予約は コチラ
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