11月10日、京都観世会館で行われた京都大学観世会の定期公演に出演した。学生による能の演目の間に、特別企画としてジャワ舞踊の上演が行われた。ジャワ舞踊の仲間である采女直子さんが能を習っており、それが縁で実現した企画だ。能舞台に上がって踊れる機会、ましてや観世会館で踊れる機会など滅多にない。
ひとつ問題があった。能舞台はもちろん、舞台裏も裸足が厳禁なのだ。以前、友人の落語家林家染雀さんの独演会にゲストで出た時も、高座に裸足では上がれないと言われた。それはそこ、落語の催しだから、粋な計らいで、
「ちらっと、よそ向いてますから・・・」
と、無事に踊ることが出来た。しかし、観世会館はやはり、そういうわけにも行かず、舞台裏まで靴下で入り、舞台には毛氈を敷くことになった。
リハーサルで踊ってみると、毛氈が床の上を滑っていった。両面テープも厳禁なのだ。2枚つなげた毛氈を舞台と平行に敷くと、少し滑りにくいことが分かった。せっかくの檜舞台だが、紙一重挟まっている。まあ、能役者も足袋という袋1枚を挟んでいるのだから・・・
舞囃子が終わって、ジャワ舞踊の登場。まずは、采女直子さんとイウィンさんが「サリ・クスモ」を踊った。リハーサルの時、見所(客席)で見たのだが、とても舞台に映えていた。ジャワのプンドポと同じように、能舞台には4本の大黒柱があり、それが梁によって結ばれ、舞台に大きな直方体を作っている。ジャワ舞踊は、身体の関節、肩、肘、手首、膝、足首、股関節、首などを支点として、多くの円運動を作り出している。また、二人の舞踊家が点対称に円軌道を描きながら、移動して行く。カチッとした舞台の直方体の四角と舞踊の円とがきれいな対照を見せている。
さあ、僕の出番だ。演目は「クロノ・アルス グヌンサリ」。ジャワ舞踊の中では、やや動きも激しく、少し抑制を取り払った部類に入る演目だ。能舞台の雰囲気をたっぷり感じて踊った。代々の能役者が踏んだ舞台には、張りつめた空気が満ちていた。身体に気をみなぎらせながらも、身体に流れ込む空気、音楽、グヌンサリの精、重力、遠心力を感じながら、身体を滑らせていった。後になって考えると、いつもより少し心の抑制が甘くなって、派手に踊ってしまったような気がする。何か押さえがたい興奮が湧いてきたのだ。舞台の力だろう。別のもっと抑えたキャラクターの演目であれば、違っていたような気もする。またの機会に試してみたい。
ジャワ舞踊では、身体の中にいろいろな線を感じて踊る。まずは、大地に対する垂直線と水平線。背骨をまっすぐに伸ばして、重力を感じるための垂直線。へその下あたりの丹田(あるいは身体の重心)を安定させ、上下することなく滑らしていくための水平線。そしてそれ以外にも、腕と足が作り出す数多くの平行線。
舞台上の大黒柱を目の前に踊ると、その柱と同化することが出来る。そうすることによって身体はますます安定した垂直線を獲得することが出来る。やがて、その垂直感覚は舞台を通り抜け、自然と一体化する。
1998年、ジョグジャカルタ王宮で、ハメンク・ブウォノ10世の即位10周年記念ワヤン・ウォン(舞踊劇)が行われた。ワヤン・ウォンには、100人以上のたくさんの出演者が必要になる。留学中だった僕は、出演者のオーディションに誘われた。出演が決まった後、何度か公演場所である王宮のパグララン(謁見場)でリハーサルがあった。ある時、練習開始時間のだいぶ前に到着した。皆が集まるまで、床に腰を下ろしてのんびりと風景を眺めた。
喧噪の極地のようなジョグジャカルタも一歩王宮へ入ると、ひんやりとした空気が流れ、時間が止まったような感覚に襲われる。目の前にアルン・アルン ロル(王宮前北広場)があり、バイクや自動車が左右に流れていく。その先には、背の高い椰子の木が並ぶアフマッ・ヤニ通り。そして、賑やかなマリオボロ通りが連なっている。ずっと先には、ガジャ・マダ大学があり、そのまたずっと先、王宮から30キロ北へ行くと3000メートル近い活火山ムラピ山がある。聖なる山から王宮まで、北から南へと一直線に連なっている。
誰もいない舞台に立った僕はマリオボロの方に向かい、ゆっくりと右手を挙げていった。
太陽が昇っていった。気がした。
ムラピ山と王宮を結ぶ線上に立った僕は、地軸に立っていた。挙げた右手を左手に引き継ぎ、降ろしていくと日が沈み。再び、右手を挙げると、月が昇った。王の座はそんな場所に作られていたのだ。ジャワ舞踊は、そんなところで育まれていたのだ。
右や左、山や海、神聖と不浄といった二項対立の概念、マクロコスモスやミクロコスモスといった世界観など、学生時代に人類学の本で読んだが、なんだか本当かなぁ、と思っていた。その後、ジョグジャに留学し、ジャワ舞踊を習い始めてからは、本の勉強は止め、とにかく肉体だけを使った。考えるよりも、動く、メモやビデオを撮るより、ただひたすらに舞踊を繰り返す。そんな日々が3年近く続いた。その日、王宮で右手を挙げて、はじめて身体の感覚として、ジャワの世界観がぐっと実感された。
「ちらっと、よそ向いてますから・・・」
と、無事に踊ることが出来た。しかし、観世会館はやはり、そういうわけにも行かず、舞台裏まで靴下で入り、舞台には毛氈を敷くことになった。
リハーサルで踊ってみると、毛氈が床の上を滑っていった。両面テープも厳禁なのだ。2枚つなげた毛氈を舞台と平行に敷くと、少し滑りにくいことが分かった。せっかくの檜舞台だが、紙一重挟まっている。まあ、能役者も足袋という袋1枚を挟んでいるのだから・・・
舞囃子が終わって、ジャワ舞踊の登場。まずは、采女直子さんとイウィンさんが「サリ・クスモ」を踊った。リハーサルの時、見所(客席)で見たのだが、とても舞台に映えていた。ジャワのプンドポと同じように、能舞台には4本の大黒柱があり、それが梁によって結ばれ、舞台に大きな直方体を作っている。ジャワ舞踊は、身体の関節、肩、肘、手首、膝、足首、股関節、首などを支点として、多くの円運動を作り出している。また、二人の舞踊家が点対称に円軌道を描きながら、移動して行く。カチッとした舞台の直方体の四角と舞踊の円とがきれいな対照を見せている。
さあ、僕の出番だ。演目は「クロノ・アルス グヌンサリ」。ジャワ舞踊の中では、やや動きも激しく、少し抑制を取り払った部類に入る演目だ。能舞台の雰囲気をたっぷり感じて踊った。代々の能役者が踏んだ舞台には、張りつめた空気が満ちていた。身体に気をみなぎらせながらも、身体に流れ込む空気、音楽、グヌンサリの精、重力、遠心力を感じながら、身体を滑らせていった。後になって考えると、いつもより少し心の抑制が甘くなって、派手に踊ってしまったような気がする。何か押さえがたい興奮が湧いてきたのだ。舞台の力だろう。別のもっと抑えたキャラクターの演目であれば、違っていたような気もする。またの機会に試してみたい。
ジャワ舞踊では、身体の中にいろいろな線を感じて踊る。まずは、大地に対する垂直線と水平線。背骨をまっすぐに伸ばして、重力を感じるための垂直線。へその下あたりの丹田(あるいは身体の重心)を安定させ、上下することなく滑らしていくための水平線。そしてそれ以外にも、腕と足が作り出す数多くの平行線。
舞台上の大黒柱を目の前に踊ると、その柱と同化することが出来る。そうすることによって身体はますます安定した垂直線を獲得することが出来る。やがて、その垂直感覚は舞台を通り抜け、自然と一体化する。
1998年、ジョグジャカルタ王宮で、ハメンク・ブウォノ10世の即位10周年記念ワヤン・ウォン(舞踊劇)が行われた。ワヤン・ウォンには、100人以上のたくさんの出演者が必要になる。留学中だった僕は、出演者のオーディションに誘われた。出演が決まった後、何度か公演場所である王宮のパグララン(謁見場)でリハーサルがあった。ある時、練習開始時間のだいぶ前に到着した。皆が集まるまで、床に腰を下ろしてのんびりと風景を眺めた。
喧噪の極地のようなジョグジャカルタも一歩王宮へ入ると、ひんやりとした空気が流れ、時間が止まったような感覚に襲われる。目の前にアルン・アルン ロル(王宮前北広場)があり、バイクや自動車が左右に流れていく。その先には、背の高い椰子の木が並ぶアフマッ・ヤニ通り。そして、賑やかなマリオボロ通りが連なっている。ずっと先には、ガジャ・マダ大学があり、そのまたずっと先、王宮から30キロ北へ行くと3000メートル近い活火山ムラピ山がある。聖なる山から王宮まで、北から南へと一直線に連なっている。
誰もいない舞台に立った僕はマリオボロの方に向かい、ゆっくりと右手を挙げていった。
太陽が昇っていった。気がした。
ムラピ山と王宮を結ぶ線上に立った僕は、地軸に立っていた。挙げた右手を左手に引き継ぎ、降ろしていくと日が沈み。再び、右手を挙げると、月が昇った。王の座はそんな場所に作られていたのだ。ジャワ舞踊は、そんなところで育まれていたのだ。
右や左、山や海、神聖と不浄といった二項対立の概念、マクロコスモスやミクロコスモスといった世界観など、学生時代に人類学の本で読んだが、なんだか本当かなぁ、と思っていた。その後、ジョグジャに留学し、ジャワ舞踊を習い始めてからは、本の勉強は止め、とにかく肉体だけを使った。考えるよりも、動く、メモやビデオを撮るより、ただひたすらに舞踊を繰り返す。そんな日々が3年近く続いた。その日、王宮で右手を挙げて、はじめて身体の感覚として、ジャワの世界観がぐっと実感された。
(佐久間新)
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