5月28日
台風が接近して、雨が降り続いている。夕方からスペース天で行われていた7月の浜松公演のワヤン(影絵芝居)練習を、まずは見学。演目はデウォ・ルチ、ダラン(人形遣い)はロフィットさん。演奏は神戸から岐阜までのガムラングループの混成メンバー。永遠の生命を得る水を求めて森や海に出かけた主人公が、最後には内なる神である自分の分身と出会う物語。雨の音が時折激しくスペース天のトタン屋根を叩く。湿気がこもった元寒天小屋に、森羅万象を表すカヨン(生命の樹)の影が、クリル(スクリーン)から外れて大きく揺れている。カエルの声とワヤンの上演はつながっているというのが、僕の直感なので、これ以上無いカエルの会のプロローグ。
10時すぎにワヤンの練習が終わったので、我が家へ移動。10時池田駅発の最終バスに乗って大学院生で音遊びの会もやってる中島さんがやって来たので、この日のオールナイトカエルピクニックの参加メンバーは7人。他には、ジャワ舞踊を習っているユミコさんとヨシコさん、デザインの仕事をしているカコさん、亀岡の高齢者施設で畑仕事をしていてバレエも踊るリコさん、堺のデイサービス祥の郷のパンクな施設長テッペイさん、そして僕。イウィンさんとブナは、カエルの声を聞きながらもう寝ている。彼らは、毎日夢の中でカエルとピクニックをしているのだろう。
まずは豊能町の航空写真地図を見ながら作戦会議。我が家の辺りは、西と東の山に囲まれた盆地になっていて、国道423号線が南北に貫いている。盆地は真ん中辺りで山が狭まり砂時計のようになっている。まずは、砂時計の下の部屋から歩いてみることにした。国道から山にかけて棚田が伸びている。何度かカエルの音を聞きに行っているのだが、この辺りはなんとなく静かなのだ、この日もそうなのか確かめたかった。
大きな地図で見る
11時すぎに、LEDの懐中電灯ひとつでピクニック開始。集落の端に、ブナが毎朝6年生のチアキちゃんと待ち合わせる角がある。その向こうは、三日月型のいびつな輪郭線を持つ10枚足らずの棚田がある。赤米も植えられているこの棚田はきっとすごく古いんじゃないだろうか。何百年も田植えが続いているってことは、何百年もカエルが鳴いているってこと。ここのカエルはひと際にぎやか。毎朝通りかかるので、なんとなく親近感が互いにあるのかもしれない。親友と深夜に会うと興奮するものだ。前を通りかかるとセンサーで車庫が光る家を通り過ぎると、杉林に入る。真っ暗だ。もちろん月も出ていないし、小雨が降り続いている。
杉林を出ると棚田が広がっている。けれど、カエルの声はほとんど聞こえてこない。傘にあたる雨粒ばかりが響く。どんどんと棚田を上がって行って、折り返す辺りの道で立ち止まる。雨、水の流れる音・・・、しばらく待っているとカエルが鳴き始めた。そんなににぎやかではないけれど・・・、僕らを警戒していたのだろうか。棚田の南側をぐるっと回って、ちょうどくびれにある高台から砂時計の下の部屋の全景を眺めた。山の上半分は霧に覆われ、田んぼの畦の黒い盛り上がりが、雨でまだらになった水に幾重にも魅力的なカーブを描いている。砂時計の底には、霧の向こうで黄色い信号が点滅している。去年のカエルの会の言い出しっぺである砂連尾さんに電話をかけて、カエルの声のコラボ。反対の耳元では、高槻のカエルが鳴いている。
くびれの一番狭くなったところに、太歳神社の参道があって鳥居がある。大きな夫婦杉、小さなお地蔵さん。左手の池にはモリアオガエルがいて、たぶん次の満月に何十ものソフトボールのようなタマゴを木の上に生む。気の早いのが、シダの後ろにふたつだけ生んでいるのをこの間発見した、という話をみんなにする。もう少し歩きたかったが、まだまだ先は長いということで一旦帰宅。1時間30分ほどのセッションだった。
すこし飲んだり食べたりしながらおしゃべり。なぜか今回は、ケアに関わる人が多い。窓を開けて、カエルの声を聞きながら。カコさんは、次の日も仕事ってことで、1階へお休みに。話は途切れなかったが、2時すぎに2回目のピクニックへ。
今度は、砂時計の上の部屋へ。あきらかにさっきよりもにぎやか。でもトノサマガエルの時間は終わったみたい。全方向に棚田が広かった辺りで、自由時間。各自、思い思いにお気に入りの場所を探す。僕もお気に入りの場所を発見。山の陰になった濃い闇に銀色の丸い玉が水面の少し上を点滅しながら飛び回っている。時折、竹やぶに金色の獣の目が光っている。空から降る雨が、水の中のカエルとの距離を近づけてくれているようだった。雨は小降りになっていた。再び集合して、みんなでずんずんと、イチゴのハウスを越えて、シイタケのハウスも越えて、棚田の上の方を目指す。最後の家は、水出さんという。その少し先の最後の棚田で振り返って、カエルの音を確かめる。もう少し行って、森を越えれば、アナザーワールドがあるけど行く?って、僕が聞くと。みんながうなずいている。
ブナが2歳の頃、寝付きが悪いと夜中に車であっちこっちドライブをした。この辺りでフクロウを見たっけ。真っ暗な山道をクネクネと進む。森の向こうからシャウシャウと聞こえてくると、空が開けていた。雲がすこし光っている。坂の上の見晴し台ようなカーブから前方に棚田が下って!いる。背中合わせになったこちらの国では、トノサマがまだお目覚めだった。鴻応山のこちら側へ戻ってくると、山の端の闇が薄くなり始めていた。銀色の玉は、ますます軽やかに飛び回っている。空からは銀色の線が田んぼに輪っかを描き続けている。
戻ってくると4時を回っていた。ね~む~た~い~。毛布をかぶって、みんなでうつらうつら。窓の外は白み始め、急速にカエルの声が遠のいていく、ような・・・。「行くよ、行くよ。起きて、起きて。」とカコさんが上がって来た。やる気満々である。雨は再びきつくなっている。カコさんは、あっという間に用水路の近くまで行っている。白鷺が低空飛行して、舞い降りる。ああ、もう鳥の時間。ツバメが急旋回している。本降りの中、しばし立ち尽くす。立ち尽くすと、カエルの声が鳴きはじめる。雨に身をまかせ、まわりに向き合うと、耳が開きはじめるのか。耳が開いて、聞こえはじめるのかもしれないし、あるいは、開いたのを感じ取ったカエルが鳴きはじめるのかもしれない。雨降りの、早朝の、田んぼに、立ち尽くす、人たち。
台風が接近して、雨が降り続いている。夕方からスペース天で行われていた7月の浜松公演のワヤン(影絵芝居)練習を、まずは見学。演目はデウォ・ルチ、ダラン(人形遣い)はロフィットさん。演奏は神戸から岐阜までのガムラングループの混成メンバー。永遠の生命を得る水を求めて森や海に出かけた主人公が、最後には内なる神である自分の分身と出会う物語。雨の音が時折激しくスペース天のトタン屋根を叩く。湿気がこもった元寒天小屋に、森羅万象を表すカヨン(生命の樹)の影が、クリル(スクリーン)から外れて大きく揺れている。カエルの声とワヤンの上演はつながっているというのが、僕の直感なので、これ以上無いカエルの会のプロローグ。
10時すぎにワヤンの練習が終わったので、我が家へ移動。10時池田駅発の最終バスに乗って大学院生で音遊びの会もやってる中島さんがやって来たので、この日のオールナイトカエルピクニックの参加メンバーは7人。他には、ジャワ舞踊を習っているユミコさんとヨシコさん、デザインの仕事をしているカコさん、亀岡の高齢者施設で畑仕事をしていてバレエも踊るリコさん、堺のデイサービス祥の郷のパンクな施設長テッペイさん、そして僕。イウィンさんとブナは、カエルの声を聞きながらもう寝ている。彼らは、毎日夢の中でカエルとピクニックをしているのだろう。
まずは豊能町の航空写真地図を見ながら作戦会議。我が家の辺りは、西と東の山に囲まれた盆地になっていて、国道423号線が南北に貫いている。盆地は真ん中辺りで山が狭まり砂時計のようになっている。まずは、砂時計の下の部屋から歩いてみることにした。国道から山にかけて棚田が伸びている。何度かカエルの音を聞きに行っているのだが、この辺りはなんとなく静かなのだ、この日もそうなのか確かめたかった。
大きな地図で見る
11時すぎに、LEDの懐中電灯ひとつでピクニック開始。集落の端に、ブナが毎朝6年生のチアキちゃんと待ち合わせる角がある。その向こうは、三日月型のいびつな輪郭線を持つ10枚足らずの棚田がある。赤米も植えられているこの棚田はきっとすごく古いんじゃないだろうか。何百年も田植えが続いているってことは、何百年もカエルが鳴いているってこと。ここのカエルはひと際にぎやか。毎朝通りかかるので、なんとなく親近感が互いにあるのかもしれない。親友と深夜に会うと興奮するものだ。前を通りかかるとセンサーで車庫が光る家を通り過ぎると、杉林に入る。真っ暗だ。もちろん月も出ていないし、小雨が降り続いている。
杉林を出ると棚田が広がっている。けれど、カエルの声はほとんど聞こえてこない。傘にあたる雨粒ばかりが響く。どんどんと棚田を上がって行って、折り返す辺りの道で立ち止まる。雨、水の流れる音・・・、しばらく待っているとカエルが鳴き始めた。そんなににぎやかではないけれど・・・、僕らを警戒していたのだろうか。棚田の南側をぐるっと回って、ちょうどくびれにある高台から砂時計の下の部屋の全景を眺めた。山の上半分は霧に覆われ、田んぼの畦の黒い盛り上がりが、雨でまだらになった水に幾重にも魅力的なカーブを描いている。砂時計の底には、霧の向こうで黄色い信号が点滅している。去年のカエルの会の言い出しっぺである砂連尾さんに電話をかけて、カエルの声のコラボ。反対の耳元では、高槻のカエルが鳴いている。
くびれの一番狭くなったところに、太歳神社の参道があって鳥居がある。大きな夫婦杉、小さなお地蔵さん。左手の池にはモリアオガエルがいて、たぶん次の満月に何十ものソフトボールのようなタマゴを木の上に生む。気の早いのが、シダの後ろにふたつだけ生んでいるのをこの間発見した、という話をみんなにする。もう少し歩きたかったが、まだまだ先は長いということで一旦帰宅。1時間30分ほどのセッションだった。
すこし飲んだり食べたりしながらおしゃべり。なぜか今回は、ケアに関わる人が多い。窓を開けて、カエルの声を聞きながら。カコさんは、次の日も仕事ってことで、1階へお休みに。話は途切れなかったが、2時すぎに2回目のピクニックへ。
今度は、砂時計の上の部屋へ。あきらかにさっきよりもにぎやか。でもトノサマガエルの時間は終わったみたい。全方向に棚田が広かった辺りで、自由時間。各自、思い思いにお気に入りの場所を探す。僕もお気に入りの場所を発見。山の陰になった濃い闇に銀色の丸い玉が水面の少し上を点滅しながら飛び回っている。時折、竹やぶに金色の獣の目が光っている。空から降る雨が、水の中のカエルとの距離を近づけてくれているようだった。雨は小降りになっていた。再び集合して、みんなでずんずんと、イチゴのハウスを越えて、シイタケのハウスも越えて、棚田の上の方を目指す。最後の家は、水出さんという。その少し先の最後の棚田で振り返って、カエルの音を確かめる。もう少し行って、森を越えれば、アナザーワールドがあるけど行く?って、僕が聞くと。みんながうなずいている。
ブナが2歳の頃、寝付きが悪いと夜中に車であっちこっちドライブをした。この辺りでフクロウを見たっけ。真っ暗な山道をクネクネと進む。森の向こうからシャウシャウと聞こえてくると、空が開けていた。雲がすこし光っている。坂の上の見晴し台ようなカーブから前方に棚田が下って!いる。背中合わせになったこちらの国では、トノサマがまだお目覚めだった。鴻応山のこちら側へ戻ってくると、山の端の闇が薄くなり始めていた。銀色の玉は、ますます軽やかに飛び回っている。空からは銀色の線が田んぼに輪っかを描き続けている。
戻ってくると4時を回っていた。ね~む~た~い~。毛布をかぶって、みんなでうつらうつら。窓の外は白み始め、急速にカエルの声が遠のいていく、ような・・・。「行くよ、行くよ。起きて、起きて。」とカコさんが上がって来た。やる気満々である。雨は再びきつくなっている。カコさんは、あっという間に用水路の近くまで行っている。白鷺が低空飛行して、舞い降りる。ああ、もう鳥の時間。ツバメが急旋回している。本降りの中、しばし立ち尽くす。立ち尽くすと、カエルの声が鳴きはじめる。雨に身をまかせ、まわりに向き合うと、耳が開きはじめるのか。耳が開いて、聞こえはじめるのかもしれないし、あるいは、開いたのを感じ取ったカエルが鳴きはじめるのかもしれない。雨降りの、早朝の、田んぼに、立ち尽くす、人たち。
(佐久間新)
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カエルナイトのお誘い
去年の5月22日、砂連尾さんがカエルの声が聞きたいと我が家へやって来た。わたしもわたしもと少し人数が増えて、結局10名ほどがオールナイトでカエルの声を聞いた。すこし寝てしまったけど・・・。この日は、雨で夜明けの奇跡のアンサンブルは聴けなかった。
2008年5月8日の早朝、トイレに起きた僕は、耳を疑うような音を聞いた。家の前にある屏風のような山を背景とする棚田から、心地いいアンサンブルが聞こえていた。それ以来、前々から気になっていたけれど、ますますカエルの声が気になるようになった。
我が家の周辺は、鴻応山や妙見山といった700メートル弱の山に囲まれたクレーターのような盆地になっていて、西の谷、東の谷、南の谷といった地名がついている。そこに棚田が広がっている。その棚田には何万ものカエルが住んでいて、声を競っている。谷の夜は静かなので音はかなり良く響く。スペース天から1.5キロ以上離れたUさんのおばさんも夜中に物干に出るとガムランの音が聞こえてくると言っている。クレーターに響き渡るカエルの音は、全体としておおきなうねりを感じることがある。それでいて、ひとつひとつの音もクリアに聞こえるのだ。交じりあっているようで、交じりきっていない感じ。自己主張してないようで、そっと主張している感じ。
夕方始まるカエルのアンサンブルは、夜が更けるとともに盛り上がり、山の際がうっすらと色を変える頃に、力の抜けたすべての音が、波にもまれた石のような丸みを帯びて響きはじめる。きっと、一晩中、カエルたちは聞くともなしに音を聞きあっているのだと思う。その最後に、鳥の声と入れ替わる直前に、あらわれる奇跡のアンサンブル。そしてまた夕方になると、砂時計をひっくり返したように、ふたたび合唱が始まる。でも、砂時計と違って、合唱は1年のサイクルの中ですこしずつ移ろっていくし、きっと、何十年何百年何千年のサイクルの中でも移ろっていて、今このときに聞こえるアンサンブルは、当たり前だけど、2度とやってこない。
2度とやってこないので、いつ聞いてもそれなりにいいのだけれど、せっかくみんなで聞く日は、なるべくいい感じになればいいなあと祈りながら、去年のつぶやきを拾ってみた。やはり5月の半ばから6月にかけてがいいみたい、きっと月や雨も影響している。今年は、5月28日の夜にカエルナイトをやります。自由集合自由解散です。雑魚寝ですが我が家で寝られます。カエルの音を聞いて、家に戻っておしゃべりして、また様子を見に行って、という感じです。今年は、すこし足を伸ばして、クレーターの端っこや隣のクレーターへもナイトカエルピクニックに出かけたいと思っています。その日は、土曜日でマルガサリの練習がスペース天であるので、まずはガムランを聞いてからというのがいいかもしれません。
カエルナイト
日時:5月28日(土)夕方より~5月29日(日)朝まで
マルガサリのガムラン練習 17時頃~21時@スペース天
カエルナイト 一晩中
場所:佐久間家 スペース天 棚田など
(大阪府豊能郡豊能町牧周辺)
阪急宝塚線池田駅からバス「余野・牧行き」で50分
国道423号線で、池田または亀岡から30分
持ち物等:懐中電灯、録音機などご自由に。寒いと思いますので、暖かい格好でお越し下さい。
来られる方は、メールでも、電話でも、メッセージでも構いませんので、お知らせください。
参照:カエルメモいろいろ
奇跡のアンサンブルのブログ
2008年5月3日
http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-entry-232.html
夜明けのカエル
去年の5月22日、砂連尾さんがカエルの声が聞きたいと我が家へやって来た。わたしもわたしもと少し人数が増えて、結局10名ほどがオールナイトでカエルの声を聞いた。すこし寝てしまったけど・・・。この日は、雨で夜明けの奇跡のアンサンブルは聴けなかった。
2008年5月8日の早朝、トイレに起きた僕は、耳を疑うような音を聞いた。家の前にある屏風のような山を背景とする棚田から、心地いいアンサンブルが聞こえていた。それ以来、前々から気になっていたけれど、ますますカエルの声が気になるようになった。
我が家の周辺は、鴻応山や妙見山といった700メートル弱の山に囲まれたクレーターのような盆地になっていて、西の谷、東の谷、南の谷といった地名がついている。そこに棚田が広がっている。その棚田には何万ものカエルが住んでいて、声を競っている。谷の夜は静かなので音はかなり良く響く。スペース天から1.5キロ以上離れたUさんのおばさんも夜中に物干に出るとガムランの音が聞こえてくると言っている。クレーターに響き渡るカエルの音は、全体としておおきなうねりを感じることがある。それでいて、ひとつひとつの音もクリアに聞こえるのだ。交じりあっているようで、交じりきっていない感じ。自己主張してないようで、そっと主張している感じ。
夕方始まるカエルのアンサンブルは、夜が更けるとともに盛り上がり、山の際がうっすらと色を変える頃に、力の抜けたすべての音が、波にもまれた石のような丸みを帯びて響きはじめる。きっと、一晩中、カエルたちは聞くともなしに音を聞きあっているのだと思う。その最後に、鳥の声と入れ替わる直前に、あらわれる奇跡のアンサンブル。そしてまた夕方になると、砂時計をひっくり返したように、ふたたび合唱が始まる。でも、砂時計と違って、合唱は1年のサイクルの中ですこしずつ移ろっていくし、きっと、何十年何百年何千年のサイクルの中でも移ろっていて、今このときに聞こえるアンサンブルは、当たり前だけど、2度とやってこない。
2度とやってこないので、いつ聞いてもそれなりにいいのだけれど、せっかくみんなで聞く日は、なるべくいい感じになればいいなあと祈りながら、去年のつぶやきを拾ってみた。やはり5月の半ばから6月にかけてがいいみたい、きっと月や雨も影響している。今年は、5月28日の夜にカエルナイトをやります。自由集合自由解散です。雑魚寝ですが我が家で寝られます。カエルの音を聞いて、家に戻っておしゃべりして、また様子を見に行って、という感じです。今年は、すこし足を伸ばして、クレーターの端っこや隣のクレーターへもナイトカエルピクニックに出かけたいと思っています。その日は、土曜日でマルガサリの練習がスペース天であるので、まずはガムランを聞いてからというのがいいかもしれません。
カエルナイト
日時:5月28日(土)夕方より~5月29日(日)朝まで
マルガサリのガムラン練習 17時頃~21時@スペース天
カエルナイト 一晩中
場所:佐久間家 スペース天 棚田など
(大阪府豊能郡豊能町牧周辺)
阪急宝塚線池田駅からバス「余野・牧行き」で50分
国道423号線で、池田または亀岡から30分
持ち物等:懐中電灯、録音機などご自由に。寒いと思いますので、暖かい格好でお越し下さい。
来られる方は、メールでも、電話でも、メッセージでも構いませんので、お知らせください。
参照:カエルメモいろいろ
奇跡のアンサンブルのブログ
2008年5月3日
http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-entry-232.html
夜明けのカエル
これは、2007年1月24日に書いた日記です。
・・・ ・・・
少し前のことになるが、去年の12月、僕の38回目の誕生日に、イウィンさんとブナと3人で、僕が生まれ育った町を見に行った。
僕は、1968年12月18日昼過ぎ、大阪市淀川区のキリスト教病院で生まれた。吹田で大阪万博が開かれる少し前である。それを更にさかのぼって1960年前後、大阪府は、戦後の経済成長に伴う、住宅難対策として、大阪北部、千里の丘陵地帯にニュータウンを建設する計画を建てていた。その後、万博の誘致にも成功し、吹田市と豊中市とにまたがる千里丘陵は、竹藪を切り開いて、大開発が行われた。みんなが繁栄と調和を信じていた時代だったんだろう。そのニュータウンの中でも、最初に開発が始められた佐竹台団地が新婚だった両親の最初の住まいとなった。長男として生まれた僕も幼稚園年長組の途中まで、そこで過ごした。

佐竹台1丁目のA10棟の前に着いた。幼い頃の記憶が湧き上がった。夾竹桃の花の色、巨大なアロエの棘。ブランコや滑り台は、位置が変わったか?団地のすぐ横には阪急千里線の線路が走り、南千里駅も見えている。ストライキの時は、近所のガキ大将と山田駅まで歩いていったっけ、橋やトンネルがめちゃくちゃ怖かった。のんきな時代である。
最上階の5階109号室に住んでいたので、5階まで上っていった。記憶が流れ出してくる。ベランダで飼っていたジュウシマツが蛇に食べられた。階段の踊り場では、ハムスターを飼っていた。4階には双子が住み、賑やかな姉妹もいたし、赤ちゃんもいた。とにかく、子供がたくさんで賑やかだった。


その109号室は、空室だった。いや、A10棟のほとんどが空室なのである。再開発のマンション計画予定地になっているようだ。老朽化した団地のすぐ横まで、新しいマンションの工事現場が押し寄せていた。
・・・ ・・・
続いて、パート2
・・・ ・・・
またまたシリーズになってしまった。佐竹台の団地では、本当にザワザワと心が揺れました。僕が今、山の中に住んで、インドネシア人の妻と子供と暮らし、ジャワ舞踊をやっていることに、何か繋がりはあるのだろうか・・・
この日記がどこに着地するのかは、まだ分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近くを散策した。周囲の団地の佇まいは、なかなか味がある。佐竹台や高野台は最初に計画・開発されたからか、日本で始めてニュータウンを作る人たちの希望や夢が建築のデザインの端々にも感じられる。団地の向きや配置、道路の通し方にリズムが感じられる。団地の中庭には、住んでいる人たちの40年間の生活が少しずつ染み出したように、園芸植物がそこここに触手を伸ばし、オブジェのように存在している。近くにある風化したショッピングセンターには、見事に時間が粘着したガムになった文具屋兼駄菓子屋があった。ナショナルのロゴが何ともかわいいラジオが置かれ、無愛想なおばあさんが子供達に、スーパーでは見たこともない10円の駄菓子を売っている。タッパーの容器の中には、粉がまぶされた餅が爪楊枝に刺さって売られている。こんなん、俺が子供の時もあっただろうか・・・


ニュータウンを散策すると、景観の良さにびっくりする。電柱の数も少ないし、丘陵を利用して、歩行者用の陸橋が渡されているので、人と車の流れもスムーズだ。また、あちらこちらに広々とした公園が点在している。佐竹台には菩提池公園あり、他にも千里南公園、中央公園、北公園などたくさんの公園がある。どこも敷地が広く、40年以上経った現在は、樹木も十分に成長し、とても美しい。北千里駅近くの古江台にあるメタセコイヤ(たぶん)が立ち並ぶ一角は、落葉した葉が絨毯のように敷き詰められ、本当にきれいだ。団地が老朽化して、建て直さざるを得ないのとは対照的だ。
僕は3歳から、千里山駅の近くにある「ナオミ幼稚園」に通った。南千里駅からは電車で一駅だ。当時、阪急北千里線は、自動改札口が日本でもいち早く設置されたそうだが、黄色いビニールの扉に何度か通せんぼされたのをよく覚えている。千里山駅には、頑固な爺さんがやっている玩具屋「がんこ屋」やたぶん、全国で第1号店の「ミスタードーナツ」があった。幼稚園は、キリスト教系だった。先生方にかわいがられて、楽しくてしょうがなかった。同じクラスの友だちの名前も、未だにたくさん覚えている。初恋?の女の子の名前も、もちろん覚えている。
年長のみどり組の時に、同じ千里ニュータウン内だけれども、地下鉄沿線の新千里西町の団地へ引っ越した。間取りが少し広かったのだ。幼稚園の残りの数ヶ月は、千里中央駅からバスで北千里駅へ行き、阪急電車で千里山駅まで乗り継いで、ひとりで幼稚園に通った。安全な時代だったんだなぁ。

新千里西町2丁目のB6棟103号室も空室だった。B6棟もほとんどの部屋が空室だった。B1棟から5棟までは、すでに取り壊されていた。ここにもマンションの再開発が押し寄せていた。佐竹台より数年後に開発されたこの団地は、もはや夢や希望よりもコストや効率が優先されて建築されたのだろう。何とも、味気ないデザインである。でも、少し成長した僕にとっては、どこもかもが遊び場で、郵便受けも、消火栓も、自転車置き場も、ビー玉をした地面も、ボールを当て続けた壁も、すべてが僕の中に存在していた。うーん、間に合ってよかった。思い出の深呼吸をゆっくりしておいた。
・・・ ・・・
今はもう、この2カ所の団地とも建て変わって、ピカピカのマンションが建っています。
・・・ ・・・
少し前のことになるが、去年の12月、僕の38回目の誕生日に、イウィンさんとブナと3人で、僕が生まれ育った町を見に行った。
僕は、1968年12月18日昼過ぎ、大阪市淀川区のキリスト教病院で生まれた。吹田で大阪万博が開かれる少し前である。それを更にさかのぼって1960年前後、大阪府は、戦後の経済成長に伴う、住宅難対策として、大阪北部、千里の丘陵地帯にニュータウンを建設する計画を建てていた。その後、万博の誘致にも成功し、吹田市と豊中市とにまたがる千里丘陵は、竹藪を切り開いて、大開発が行われた。みんなが繁栄と調和を信じていた時代だったんだろう。そのニュータウンの中でも、最初に開発が始められた佐竹台団地が新婚だった両親の最初の住まいとなった。長男として生まれた僕も幼稚園年長組の途中まで、そこで過ごした。

佐竹台1丁目のA10棟の前に着いた。幼い頃の記憶が湧き上がった。夾竹桃の花の色、巨大なアロエの棘。ブランコや滑り台は、位置が変わったか?団地のすぐ横には阪急千里線の線路が走り、南千里駅も見えている。ストライキの時は、近所のガキ大将と山田駅まで歩いていったっけ、橋やトンネルがめちゃくちゃ怖かった。のんきな時代である。
最上階の5階109号室に住んでいたので、5階まで上っていった。記憶が流れ出してくる。ベランダで飼っていたジュウシマツが蛇に食べられた。階段の踊り場では、ハムスターを飼っていた。4階には双子が住み、賑やかな姉妹もいたし、赤ちゃんもいた。とにかく、子供がたくさんで賑やかだった。


その109号室は、空室だった。いや、A10棟のほとんどが空室なのである。再開発のマンション計画予定地になっているようだ。老朽化した団地のすぐ横まで、新しいマンションの工事現場が押し寄せていた。
・・・ ・・・
続いて、パート2
・・・ ・・・
またまたシリーズになってしまった。佐竹台の団地では、本当にザワザワと心が揺れました。僕が今、山の中に住んで、インドネシア人の妻と子供と暮らし、ジャワ舞踊をやっていることに、何か繋がりはあるのだろうか・・・
この日記がどこに着地するのかは、まだ分かりません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
近くを散策した。周囲の団地の佇まいは、なかなか味がある。佐竹台や高野台は最初に計画・開発されたからか、日本で始めてニュータウンを作る人たちの希望や夢が建築のデザインの端々にも感じられる。団地の向きや配置、道路の通し方にリズムが感じられる。団地の中庭には、住んでいる人たちの40年間の生活が少しずつ染み出したように、園芸植物がそこここに触手を伸ばし、オブジェのように存在している。近くにある風化したショッピングセンターには、見事に時間が粘着したガムになった文具屋兼駄菓子屋があった。ナショナルのロゴが何ともかわいいラジオが置かれ、無愛想なおばあさんが子供達に、スーパーでは見たこともない10円の駄菓子を売っている。タッパーの容器の中には、粉がまぶされた餅が爪楊枝に刺さって売られている。こんなん、俺が子供の時もあっただろうか・・・


ニュータウンを散策すると、景観の良さにびっくりする。電柱の数も少ないし、丘陵を利用して、歩行者用の陸橋が渡されているので、人と車の流れもスムーズだ。また、あちらこちらに広々とした公園が点在している。佐竹台には菩提池公園あり、他にも千里南公園、中央公園、北公園などたくさんの公園がある。どこも敷地が広く、40年以上経った現在は、樹木も十分に成長し、とても美しい。北千里駅近くの古江台にあるメタセコイヤ(たぶん)が立ち並ぶ一角は、落葉した葉が絨毯のように敷き詰められ、本当にきれいだ。団地が老朽化して、建て直さざるを得ないのとは対照的だ。
僕は3歳から、千里山駅の近くにある「ナオミ幼稚園」に通った。南千里駅からは電車で一駅だ。当時、阪急北千里線は、自動改札口が日本でもいち早く設置されたそうだが、黄色いビニールの扉に何度か通せんぼされたのをよく覚えている。千里山駅には、頑固な爺さんがやっている玩具屋「がんこ屋」やたぶん、全国で第1号店の「ミスタードーナツ」があった。幼稚園は、キリスト教系だった。先生方にかわいがられて、楽しくてしょうがなかった。同じクラスの友だちの名前も、未だにたくさん覚えている。初恋?の女の子の名前も、もちろん覚えている。
年長のみどり組の時に、同じ千里ニュータウン内だけれども、地下鉄沿線の新千里西町の団地へ引っ越した。間取りが少し広かったのだ。幼稚園の残りの数ヶ月は、千里中央駅からバスで北千里駅へ行き、阪急電車で千里山駅まで乗り継いで、ひとりで幼稚園に通った。安全な時代だったんだなぁ。

新千里西町2丁目のB6棟103号室も空室だった。B6棟もほとんどの部屋が空室だった。B1棟から5棟までは、すでに取り壊されていた。ここにもマンションの再開発が押し寄せていた。佐竹台より数年後に開発されたこの団地は、もはや夢や希望よりもコストや効率が優先されて建築されたのだろう。何とも、味気ないデザインである。でも、少し成長した僕にとっては、どこもかもが遊び場で、郵便受けも、消火栓も、自転車置き場も、ビー玉をした地面も、ボールを当て続けた壁も、すべてが僕の中に存在していた。うーん、間に合ってよかった。思い出の深呼吸をゆっくりしておいた。
・・・ ・・・
今はもう、この2カ所の団地とも建て変わって、ピカピカのマンションが建っています。
(佐久間新)
5月2日 、我が家から山道を茨木の方へ走っていくと、大きな園芸屋さんがある。そこを右折し、細い道をあがって峠を越えると、いきなり別世界になる。山里から巨大造成地への裂け目がのぞける。万博外周道への抜け道なので、以前からよく通っている道だ。この日は、造成地の一番上にある彩都の丘学園へ行った。3時間目にある芸術鑑賞のため。10時すぎに校門に着くと、守衛さんがピカピカの門を開けてくれた。教頭先生が出迎えてくれて、ピカピカの校長室へ案内してくれた。今年の4月に開校したばかりの小中一貫校で、全校生徒は71人。5年後には800人になるとのこと。職員室はガラス張りで、先生の机には新品の大画面のパソコンが乗っていた。控え室は、職員更衣室の奥だったが、なぜかここには畳が敷いてあった。
ピカピカの学校は、造成地にあるので木がほとんどない。あっても植えたばかり。まわりもまだ造成中で、赤茶けた宅地が広がっているばかり。11時40分3時間目が開始。中庭のステージ前に、こどもたちが座っている。前の方には低学年、後ろにはもうおとなになりかけの中学生。僕が話を始めると、低学年がにぎやかに反応してくれる。ジャワの仮面舞踊を踊った。10分以上あるけど、みんな集中して見てくれたようだった。終わってから、少しの時間、ワークショップ。木も草も生えていないピカピカの学校の中庭で何が聞こえるか、耳を澄ましてみた。遠くのダンプの音、風の音、ビニールの鯉のぼりのシャラシャラする音、鳥の声も聞こえた。それから、最後に僕からみんなにダンスで波を送ってみた。前の方のこどもは波になって一緒におどってくれたが、後ろの方の生徒はすこしうつむき加減だった。と思っていた、というか思い込んでいた。高学年やましてや中学生になったら、波なんかやってくれないよなあ、と。
数日前、学校から手紙が送られて来た。中には、「佐久間さんへ 彩都の丘学園のみんなから」という文集が入っていた。読んでいると、
なみがおもしろかったです。一番前のれつにすわりたかったです。(3年女子)
目をとじて音を聞いているとスーと風がふいてきて気持ちがよかったです。(3年女子)
目をとじて口をとじて耳をすましたらいろんな音が聞こえました。そよそよザワザワといろんな音が聞こえました。(3年)
波をおくる時も佐久間さんは、「前の方は、おもしろがってたけど、後は、何じゃこりゃて、感じかな。」と言っていましたけど、ぼくはゆっくり波がくる感じが、ちょっときました。(4年男子)
佐久間さんがわたしたちに波をおくってくれたときほんとうに風がつよくなってすずしかったです。(4年女子)
高学年は反応が薄かったかもしれませんが、その人の中ではいい経験になっていたはずです。(9年男子)
といった感想が含まれていた。ああ、しっかり受け止めていてくれたんだ。もちろん恥ずかしさもあるけど、来てくれたゲストに対する気配りもある。波だって、無視してた訳ではない、結構気になっていたのだ。見ている人の理解する力や想像する力をもっともっと信じなければいけないなあ、とつくづく思う。雑草1本生えていないピカピカの学校の始めての鑑賞会のゲストになったのは、なにかの縁かもしれない。吹き抜けのランチルームやガラス張りの廊下はきれいだったけど、味気なさも感じた。なんといっても、ブナが今通っているのは130年越える小学校だし・・・。でも、僕自身はどうだったのか。高度成長期の千里ニュータウンに生まれた僕は、お墓も神社もない街で大きくなったのだ。今では、毎日俳人になったかのように季節のつぶやきなんて言っている僕は、味気のないニュータウンに育ったのだ。そこからどう巡り巡って、今こうやってカエルの音を聞きながらキーボードを叩いているのか。不思議だけど、必然でもある流れ。
このブログには載っていませんが、2007年の1月に、千里オールドタウンという日記を書いています。パート2まで書いて、続くとなっていました。今回、4年経ってパート3です。まだ続くのかもしれません。次の日記に、パート1とパート2を載せます。ややこしくてすみません。
ピカピカの学校は、造成地にあるので木がほとんどない。あっても植えたばかり。まわりもまだ造成中で、赤茶けた宅地が広がっているばかり。11時40分3時間目が開始。中庭のステージ前に、こどもたちが座っている。前の方には低学年、後ろにはもうおとなになりかけの中学生。僕が話を始めると、低学年がにぎやかに反応してくれる。ジャワの仮面舞踊を踊った。10分以上あるけど、みんな集中して見てくれたようだった。終わってから、少しの時間、ワークショップ。木も草も生えていないピカピカの学校の中庭で何が聞こえるか、耳を澄ましてみた。遠くのダンプの音、風の音、ビニールの鯉のぼりのシャラシャラする音、鳥の声も聞こえた。それから、最後に僕からみんなにダンスで波を送ってみた。前の方のこどもは波になって一緒におどってくれたが、後ろの方の生徒はすこしうつむき加減だった。と思っていた、というか思い込んでいた。高学年やましてや中学生になったら、波なんかやってくれないよなあ、と。
数日前、学校から手紙が送られて来た。中には、「佐久間さんへ 彩都の丘学園のみんなから」という文集が入っていた。読んでいると、
なみがおもしろかったです。一番前のれつにすわりたかったです。(3年女子)
目をとじて音を聞いているとスーと風がふいてきて気持ちがよかったです。(3年女子)
目をとじて口をとじて耳をすましたらいろんな音が聞こえました。そよそよザワザワといろんな音が聞こえました。(3年)
波をおくる時も佐久間さんは、「前の方は、おもしろがってたけど、後は、何じゃこりゃて、感じかな。」と言っていましたけど、ぼくはゆっくり波がくる感じが、ちょっときました。(4年男子)
佐久間さんがわたしたちに波をおくってくれたときほんとうに風がつよくなってすずしかったです。(4年女子)
高学年は反応が薄かったかもしれませんが、その人の中ではいい経験になっていたはずです。(9年男子)
といった感想が含まれていた。ああ、しっかり受け止めていてくれたんだ。もちろん恥ずかしさもあるけど、来てくれたゲストに対する気配りもある。波だって、無視してた訳ではない、結構気になっていたのだ。見ている人の理解する力や想像する力をもっともっと信じなければいけないなあ、とつくづく思う。雑草1本生えていないピカピカの学校の始めての鑑賞会のゲストになったのは、なにかの縁かもしれない。吹き抜けのランチルームやガラス張りの廊下はきれいだったけど、味気なさも感じた。なんといっても、ブナが今通っているのは130年越える小学校だし・・・。でも、僕自身はどうだったのか。高度成長期の千里ニュータウンに生まれた僕は、お墓も神社もない街で大きくなったのだ。今では、毎日俳人になったかのように季節のつぶやきなんて言っている僕は、味気のないニュータウンに育ったのだ。そこからどう巡り巡って、今こうやってカエルの音を聞きながらキーボードを叩いているのか。不思議だけど、必然でもある流れ。
このブログには載っていませんが、2007年の1月に、千里オールドタウンという日記を書いています。パート2まで書いて、続くとなっていました。今回、4年経ってパート3です。まだ続くのかもしれません。次の日記に、パート1とパート2を載せます。ややこしくてすみません。
(佐久間新)
4月25日
朝日新聞のH記者が我が家へやって来た。2年前に、京阪なにわ橋駅でやった「からだトーク」を取材してくれた縁です。
http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-entry-267.html
で、電話番号を教えてほしいとメールがあったので、携帯番号を書いて返信したんですが、すぐに、つながらないので間違っているんじゃないかと再びメールが。確認すると打ち間違えていたので、送り直そうとしていると、携帯電話がなった。
あれっ?
「あの・・・、間違っていたところが見えたんです・・・、たぶん、ここの数字が入れ替わっているはずだと。」
おお、すごい勘です。よくよく電話番号を見ると、やはりそこしか間違わないように見える。090の後、最初の二つは一体感があるし、最後の4桁はリズムがある。この真ん中に、一瞬油断が生じたところの2桁が入れ替わる・・・。後で、ゆっくり見ると、事後確認だと、なんとか発見できる。しかし、これを瞬時のうちに、見いだすとは・・・。新聞記者の得意能力なんでしょうか?
で、そのHさんが、豊能町で記事を書きたいので、僕にいろいろ話を聞いたり、我が家周辺を見たいということで、やって来た。バス停から電話があったので、すぐに迎えに行って、そのまま散歩へ出た。街紹介を担当しているんだけど、普段から面白い人に会ったときに、この人が住んでいるところは面白いに違いないという経験則があって、取材地を選ぶこともあるという。それで、我が家までやって来た。面白い人だなあ。
我が家のある牧集落、スペース天、役場の近くの駐車場にイノシシがぶら下がるスーパーなどを、おしゃべりしながらブラブラ。記事になる場合は、もう一度取材に訪れるとのこと。また、ここでも告知します。
4月26日
ジャワ舞踊教室に見学の女性が来られた。2月に放映された「隣の人間国宝さん」を見ていた彼女のお母さんが、湯気ダンスが気に入って、ダンスを習いたかったKさんに薦めたとのこと。2ヶ月も経つのに、ジワジワと反応があるのがうれしい。
職場が京都なので、結局、京都のJEUGIAさんの方へ入会された。末長いおつきあいになるでしょう。
4月29日
和太鼓グループ「黒拍子」の安田典幸さんと菜美さん夫妻が我が家へやって来た。2年前に神戸のQ2でやったガムランエイドのイベントで共演したのが縁。菜美さんとは、去年、大淀アートセントーでやった「銭湯即興」でも一緒だった。その時に、やっぱり一緒だったマルガサリの西田ゆりちゃんも遊びに来てくれた。穏やかな菜美さんの顔がさらに穏やかになっていて、お腹まわりがふくよかになっていた。8ヶ月とのことだった。
お土産のパンとわらび餅を食べて、散歩へ出た。とにかく、我が家へ来たら散歩なのです。葉桜になり、田んぼに水が入り始め、新緑が光っている。安田さんがiphoneでパチリパチリと写真を撮った。






家へ戻って、ありあわせの夕食。掘りたてのタケノコのみそ汁、たらの芽の天ぷらとか。この時期は、山のものがあるのでありがたい。帰り際にスペース天へ寄ると、ストーブがいるくらい寒い。ガムランで遊ぶ。元気な赤ちゃんが生まれますように!
朝日新聞のH記者が我が家へやって来た。2年前に、京阪なにわ橋駅でやった「からだトーク」を取材してくれた縁です。
http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-entry-267.html
で、電話番号を教えてほしいとメールがあったので、携帯番号を書いて返信したんですが、すぐに、つながらないので間違っているんじゃないかと再びメールが。確認すると打ち間違えていたので、送り直そうとしていると、携帯電話がなった。
あれっ?
「あの・・・、間違っていたところが見えたんです・・・、たぶん、ここの数字が入れ替わっているはずだと。」
おお、すごい勘です。よくよく電話番号を見ると、やはりそこしか間違わないように見える。090の後、最初の二つは一体感があるし、最後の4桁はリズムがある。この真ん中に、一瞬油断が生じたところの2桁が入れ替わる・・・。後で、ゆっくり見ると、事後確認だと、なんとか発見できる。しかし、これを瞬時のうちに、見いだすとは・・・。新聞記者の得意能力なんでしょうか?
で、そのHさんが、豊能町で記事を書きたいので、僕にいろいろ話を聞いたり、我が家周辺を見たいということで、やって来た。バス停から電話があったので、すぐに迎えに行って、そのまま散歩へ出た。街紹介を担当しているんだけど、普段から面白い人に会ったときに、この人が住んでいるところは面白いに違いないという経験則があって、取材地を選ぶこともあるという。それで、我が家までやって来た。面白い人だなあ。
我が家のある牧集落、スペース天、役場の近くの駐車場にイノシシがぶら下がるスーパーなどを、おしゃべりしながらブラブラ。記事になる場合は、もう一度取材に訪れるとのこと。また、ここでも告知します。
4月26日
ジャワ舞踊教室に見学の女性が来られた。2月に放映された「隣の人間国宝さん」を見ていた彼女のお母さんが、湯気ダンスが気に入って、ダンスを習いたかったKさんに薦めたとのこと。2ヶ月も経つのに、ジワジワと反応があるのがうれしい。
職場が京都なので、結局、京都のJEUGIAさんの方へ入会された。末長いおつきあいになるでしょう。
4月29日
和太鼓グループ「黒拍子」の安田典幸さんと菜美さん夫妻が我が家へやって来た。2年前に神戸のQ2でやったガムランエイドのイベントで共演したのが縁。菜美さんとは、去年、大淀アートセントーでやった「銭湯即興」でも一緒だった。その時に、やっぱり一緒だったマルガサリの西田ゆりちゃんも遊びに来てくれた。穏やかな菜美さんの顔がさらに穏やかになっていて、お腹まわりがふくよかになっていた。8ヶ月とのことだった。
お土産のパンとわらび餅を食べて、散歩へ出た。とにかく、我が家へ来たら散歩なのです。葉桜になり、田んぼに水が入り始め、新緑が光っている。安田さんがiphoneでパチリパチリと写真を撮った。






家へ戻って、ありあわせの夕食。掘りたてのタケノコのみそ汁、たらの芽の天ぷらとか。この時期は、山のものがあるのでありがたい。帰り際にスペース天へ寄ると、ストーブがいるくらい寒い。ガムランで遊ぶ。元気な赤ちゃんが生まれますように!
(佐久間新)
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