12月25日
メリークリスマス。太陽も力を回復しつつあります。
昨日は,梅田へクリスマスプレゼントを探しに行った。中津辺りに車を停めて,歩いて梅田方面へ。ロフトに入った。いつ以来だろう?あっそうそう,来年のスケジュール帳を買わねば・・・。懐かしい絵が、目に飛び込んできた「子猫のピッチ」。子供の頃に一番お気に入りだった絵本。迷わず買ってしまった。去年のは,ブルーナのウサギだったので,ウサギから猫へバトンタッチ。イケナイイケナイ、今日の目的は,クリスマスプレゼント。道路をわたって、阪急三番街辺りをウロウロ。

去年のクリスマスプレゼントは、小桜インコだった。家へ置いておくとバレるので,鳥かご抱えての1日で大変だった。京都の舞踊教室では,鳥かごを置いてのレッスンになった。今年は何にしようかと迷ったが、最近、ブナは宇宙と恐竜に興味が出てきたので,その方面で探すことにしていた。結局,加古里子の「宇宙」の絵本,恐竜の図鑑,世界の国旗のカルタ、ラキュウという小さなブロックという組み合わせにした。
一度,牧の自宅へ帰って,イウィンさんとインコのパリノとブナを保育所へ迎えにいき,豊中の実家へ。上がっていくと,部屋はロウソクの明かりだけになっていた。ばあさんが気合いを入れて,鳥の丸焼きを焼いていた。ブナはサンタの衣装に着替えて,じいさんとばあさんからプレゼントをもらった。目覚まし時計と谷川俊太郎の「ともだち」という絵本。ケーキを食べて,ごちそうを食べて,牧の家に帰った。オリオン座が瞬いている。ブナは車で寝てしまったので,だっこして、ベッドに運んだ。プレゼントをセットして,僕も寝た。後何回,サンタになれるのだろう。
メリークリスマス。太陽も力を回復しつつあります。
昨日は,梅田へクリスマスプレゼントを探しに行った。中津辺りに車を停めて,歩いて梅田方面へ。ロフトに入った。いつ以来だろう?あっそうそう,来年のスケジュール帳を買わねば・・・。懐かしい絵が、目に飛び込んできた「子猫のピッチ」。子供の頃に一番お気に入りだった絵本。迷わず買ってしまった。去年のは,ブルーナのウサギだったので,ウサギから猫へバトンタッチ。イケナイイケナイ、今日の目的は,クリスマスプレゼント。道路をわたって、阪急三番街辺りをウロウロ。

去年のクリスマスプレゼントは、小桜インコだった。家へ置いておくとバレるので,鳥かご抱えての1日で大変だった。京都の舞踊教室では,鳥かごを置いてのレッスンになった。今年は何にしようかと迷ったが、最近、ブナは宇宙と恐竜に興味が出てきたので,その方面で探すことにしていた。結局,加古里子の「宇宙」の絵本,恐竜の図鑑,世界の国旗のカルタ、ラキュウという小さなブロックという組み合わせにした。
一度,牧の自宅へ帰って,イウィンさんとインコのパリノとブナを保育所へ迎えにいき,豊中の実家へ。上がっていくと,部屋はロウソクの明かりだけになっていた。ばあさんが気合いを入れて,鳥の丸焼きを焼いていた。ブナはサンタの衣装に着替えて,じいさんとばあさんからプレゼントをもらった。目覚まし時計と谷川俊太郎の「ともだち」という絵本。ケーキを食べて,ごちそうを食べて,牧の家に帰った。オリオン座が瞬いている。ブナは車で寝てしまったので,だっこして、ベッドに運んだ。プレゼントをセットして,僕も寝た。後何回,サンタになれるのだろう。
(佐久間新)
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少し前、たんぽぽの家のカンプータイラーこと岡部太郎さんからメールがあった。
・・・ ・・・
すみません、全然別件なのですが、先日いただいた美味しいお茶のパッケージの意味を教えてください。
釘抜きの図柄だと思うのですが、お茶との関係性が知りたいのです。「お茶を飲めば元気に働ける」という感じでしょうか。それとも屋号のようなものなのでしょうか。書いてある文章に意味があるのでしょうか。
個人的な興味です。お時間のあるときに教えて頂ければ幸いです。
美味しく頂いています。ありがとうございます。
・・・ ・・・
岡部さんにジャワのお茶をあげたのだった。ジャワに昔からあるお茶、タバコ,調味料,ジャムー(漢方系の強壮剤など)などは、パッケージにキッチュな絵が描かれていてカワイイ。夏に来日したオン・ハリ・ワフユさんもコレクションしているといっていた。特に、ジャワティーのパッケージにはさまざまなロゴあって,みんな好みの味とロゴがある。このペンチロゴの名柄は、おいしいお茶の定番である。ネットで検索するとこんなのが出てきた。
http://terserahbapak.blogspot.com/2007/09/blog-post_22.html
Tereserah Bapak
おじさんにおまかせ という名前のウェブサイトで,どうやらグループの名前でもあるらしい。
KAMI BERUSAHA MEMBANTU MELESTARIKAN KEBUDAYAAN INDONESIA MELALUI KATA-KATA DAN CANDA TAWA BERSAMA KELOMPOK TERSERAH BAPAK.
私たちは,「おじさんにおまかせ」グループとともに,言葉や馬鹿話を通して,インドネシアの文化を保存することを目指している、
そうだ。
右側のリンク先や右下の商品名をクリックすると他のお茶目のパッケージもいろいろ出てくる。
で、このペンチの意図とは、
rasa Tehnya yang nikmat digambarkan melalui pentjatoetan paku oleh tang pada gambar, jadi saat kita merasakan Teh ini rasanya seperti diTjatoet.
このおいしいお茶の味は、絵にあるようにペンチによって抜かれる釘で表現できるのだ。つまり、わたしたちがこのお茶を飲む時、味は「抜けた?」という感じなのだ。
(佐久間新)
12月8日
先週に引き続き、またしても関空10時50分集合。たんぽぽの家から、理事長の播磨靖夫さん、スタッフで今回はプレゼンもする岡部太郎さん,僕のダンスパートナーの伊藤愛子さん、今乗ってる画家の山野将志さん、プレゼン兼山野さんケアの藤井克英さん、美術ワークショップ担当の中井幸子さん、愛ちゃんケアの北野しのぶさんが4階ロビーに集まっている。愛ちゃんのお母さんと送迎の中川さんも。
12時50分発、上海航空機で出発。機内食のスパゲッティを食べると、あっという間に14時過ぎ(時差1時間)上海着。イミグレーションが少し込んだが無事入国。はじめての中国上陸!イミグレーションの係官は,ちょっと見、無愛想だが,よく見ると憮然とした顔の下に親しみやすい顔が見え隠れしている。僕の前にいた中央アジアらしき人の旅行者のパスポートのビザを寄ってたかってルーペで覗き込んでいるのもちょっと芝居がかった感じで、みんな楽しそう。両替場の人民服みたいなちょっとダボダボの制服を着たガードマンも,聞きもしないのに,僕が持っているスコットランド・ポンドを見て,「それは無理だよ。」と話しかけてくる。人と人の距離が近い感じ。
上海障碍者連合会国際部のメンバーで通訳を兼ねている聞セイ(女偏に青:ブンセイ)さんと王安さんが迎えにきてくれていた。2時間ほど遅れて,福岡から工房まるの3人がやってくるので,空港内のバーガーキングで待つことに。聞さんは、中国の大学で日本語を学んだ後,岡山へ半年留学したという。半年とは思えないほど、日本語がとても流暢である。「私の名前はブンです。新聞の聞です。」と自己紹介するので、「僕は,新聞の新です。」と、僕も自己紹介した。目がクリクリと動き回る聡明な女性。
工房まるの代表の吉田修一さん、画家の柳田烈伸さん、ケアの池永健介さんが到着。吉田さんは黒いレザーのジャケット、柳田さんと池永さんは山高帽に眼鏡姿で,3人ともとてもファッショナブル。マイクロバスに乗って,市内へ。しかし、ラッシュ時で高速道路がひどい渋滞。運転手は雑疑団並みのテクニックで4車線の端から端までを使って,どんどん河をさかのぼって行く。僕はジャワで運転を覚えたので,こういうのには慣れているけど、それにしてもすごい運転。頭上を、リニアモーターカーが凄まじい勢いで通り過ぎていった。高速の両側のビル群はスモッグにけむっている。1時間半ほどでノーブルセンターというホテルに到着。吉田さんたちは,飛行機に乗っていた時間より長くなったよう。
播磨さんは,30年以上前から上海障碍者連合会と付き合いがあり,その中のひとりのラさんがこのホテルの支配人だったので,なにかといたれりつくせりだった。特別室に案内され,ガラスのぐるぐる回るテーブルを囲んでの食事になった。その日は,そのまま解散,就寝。僕はちょっと寝付けなかったので,小雨の降る中、ホテルの周りを散歩した。海外の初日は、いつも高ぶった気持ちになる。ヤッケのフードをかぶって、夜の上海の気配を感じにいった。ガードマンの目つき、商店のおじさんの態度,アスファルトの具合,車の飛ばし具合,食堂の窓の汚れ具合,マッサージ屋の女性の視線の粘り具合、街灯の薄暗さ,道行く人の視線の強さなどを感じながら、雨がオレンジの電灯に照らされる中を歩いた。6、7車線ある大きな道路に面して,古いアパート,タバコ屋,怪しいマッサージ店,汁そば屋などが並ぶ。ジャカルタと似た感じかな。寒いのを除けば。共産時代に建った集合住宅がなぜか懐かしく感じられた。ホテルのガードマンに柵をあけてもらって,部屋に戻って,おとなしく寝た。そういえば,ジョン・レノンの命日だったか。真珠湾開戦の日だったか。
12月9日
午後から,ART FOR ALLと題されたフォーラム。日中の障がいある人のアートに関する報告会。日本からは,播磨さん、岡部さん,藤井さん,吉田さんが発表を行った。中国では,障がい者のアートと言えば,聾唖者の絵や視角障害者の音楽などに限定されているとのことだった。それに比べると,日本では,知的障がいのある人のアートの取り組みが進んでいる。障がいのある人の独特のアートを商品化していくというのが,中国側の参加者の興味を引いているようだった。会場にたくさんいた聾唖者の参加者が、パワーポイントで映し出されるTシャツやマグカップになった障がいのある人の作品を盛んに撮影していた。中国側の発表で朱希さんが発表した農民の絵画はすばらしかった。学校で絵画の教育を受けていない農民が,自分たちの農村の生活や世界観を色鮮やかに描いている。会の終了後,朱希さんが農民の絵のカレンダーをくれた。来年行われる上海万博の記念グッズなので,立派なものである。しかし、農民が描いた/描かされた万博会場や都会の絵は,全く面白くなかった。
夜は、歓迎会だった。レストランに招かれた。日本語,中国語,英語が乱れ飛んでの賑やかなパーティになった。佐久間新というのは,中国読みでは,ZUO JIU JIAN XINとなると教えてもらった。シンは、XINで同じ。体調を崩してパーティを欠席した岡部太郎さんの名前は,カンプー・タイラーと発音するようで、昼間,彼はしきりに自慢していたのだった。料理は,おいしかった。特に豚肉と皮と脂を餅米で炊いたのがおいしかった。河魚の蒸し物もおいしかったが,これはこの前の週にジョグジャで食べたカカップ(鯛に似た海の魚)の蒸し物の方が一段上だった。飲物は、1939という数字の入った老酒のぬる燗がおいしかった。
12月10日
9時に紀勲初等技術職業訓練学校へ。まずは、副校長と担任の先生と打ち合わせ。海外の学校でワークショップをする時には、事前に先生に対してこちらの意図を十分に説明することが大切だということが、ヨーロッパでの経験を経て分かってきたので,丁寧に行った。僕と愛ちゃんの担当は、午前の90分。まずは、二人で即興で20分ほど踊って,残りの60分をワークショップにあてるという予定だった。愛ちゃんとどこでパフォーマンスするかの場所を下見。即興するには,場所選びが重要だ。少し寒くて雨が降りそうだったが,運動場でやることにした。空気が動いているし,伸びやかな気持ちをみんなで感じられそうな気がしたからだ。10時過ぎ、愛ちゃんと運動場でパフォーマンスを始めた。障がいのある30人の生徒たち,先生,日本から来たメンバー、カメラマンが取り囲んでいる。踊りはじめてすぐ、ふっと後ろを見ると,生徒たちが数人が踊りたそうに近づいてきている。すぐに踊りの輪ができた。輪はあちらこちらへ動いたり,解散したり,また別の場所にあらわれたり、次から次へと踊りの輪が出来た。小雨が降ってきたので,みんなに中に入ろうと踊りながら合図を送った。ちょうど予定時間の20分くらいだった。
残りの60分は,教室でいろいろとからだを動かした。17歳から25歳の生徒たちは,個性的でパフォーマンス力のある人が多かった。子供よりも,これくらいの年になるといろんな経験を経て,存在に味が出てくる。その存在感を生かしたダンスを引き出しすのが大切だ。最後は,僕が波になって,みんなが海になったり,海の生き物になったりした。11時30分に終了。
昼ご飯は,職業訓練学校なので、生徒たちが作ったピザ。卒業すると、大手ピザチェーンに就職するメンバーがいるそうだ。それから、水餃子風ワンタンのスープ。どんぶりに10個以上入っている。ごちそう続きだったので、素朴なメニューがうれしい。ピザも水餃子もおいしかった。
昼からは,山野さんと柳田さんのグループに分かれての美術ワークショップ。柳田さんは脳性麻痺があり,からだの制御が効きにくい。常に首や手、上半身に力が入っていて,からだが律動し続けている。彼のすばらしい絵は見たことがあったので,どうやって描くのか興味があった。柳田さんは、ペアを作って、お互いに顔を描くというワークショップを行った。床に座った柳田さんは、上体を前後左右に揺らしながらも目はしっかり相手を捉え,からだを立体的にスキャンしていく。これだという構図と表情を探っているようだ。やがて、筆記具を手に持って,左手が動き始める。震えながら紙の上を,時には紙のない所まで動きながら,あちらこちらに動いていく。時折,筆記具が紙にあたると、繊細な線が無数に生まれてくる。そして、ここだ、という瞬間に,力強い迷いのないしっかりした線が紙に刻み込まれる。目,鼻,口が、そうでしかない確かさでたち現れる。
http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20080201/p1
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=054
柳田さんの部屋を中心に見たので,山野さんの方はちらっと見るだけだったが,時折気合いを入れる声を上げながら,一心に筆を動かし続けていたようだ。中井さんが,参加メンバーの特徴を見ながら,きめ細かいアドバイスを送っていた。山野さんの絵を描く姿に,だんだんと風格が備わっているように感じた。
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=004
12月11日
今日もどんよりしている。上海へ来て,太陽を見ていない。どころか雲も見ていない。ずっとスモッグが立ちこめているのだ。午前中,静安地区にある陽光の家総合福祉センターへ。バスの中では,時折ギギギギと音が聞こえる。マイクロバスの運転手がダッシュボードに、小さなプラスチックケースに入れてコオロギを飼っているのだ。市内の中心部へ。8万人収容の巨大なスタジアムや美術館、マンション群,デパート,ショッピングセンターを通り過ぎる。やっとテレビで見るような上海へ来た感じ。少し落ち着いた界隈へ入ると、マイクロバスは真新しいビルの前に止まった。正確に言うと,ビルは古いんだけど,博覧会のパビリオンのようにきれいにリフォームされているビルの前。耳から細いヘッドマイクをつけた170センチの美人コンパニオンが迎えてくれる。横には,同じく170センチの先輩がサポートというかチェックしている。黄緑色のオブジェやサインボードに書かれた施設のコンセプトを説明していく。播磨さんがつたえ続けた理念が多いに反映されている。エレベータで階を上がっていく。来年の万博に向けて,上海では障がい者の問題への取り組みが進んでいるという。昨日の職業訓練学校もこの陽光の家も、モデルケースなんだろう。上海中で一番いい所なんだろう。播磨さんや岡部さんは,なんども上海へ来ているので,もっといろんな所を見せてもらっているとのことだ。中国での障がい者の立場はまだまだ悲惨で,施設や学校へ来られているのは、軽度で比較的裕福な家族の子供とのことだ。
3階の部屋へ上がっていくと,障がいのある人たちが部屋の中で作業をしていた。鳩目ホックを台紙にはめる作業。プチプチと1枚に100個ほど留めていく。各自には,能力に応じてノルマが決められているようで,仕上がり具合を検品し,個数を数える係の人間がいる。播磨さんがしゃべりかけてきた。「こういう作業では,誇りを持てないんです。」僕は,通訳の仕事で刑務所の中へ行くこともあるが,同じ風景である。もちろん、工場での流れ作業など、一般の人でも単純作業に従事している人は多い。僕もそんな仕事をしたこともある。しかし、そこでも,僕たちは懸命に創意や工夫を見いだし,自分の作業になにがしかのやりがいを見いだそうとするし、その仕事が社会のために役に立っていると実感することもある。
播磨さんの希望は,障害のある人,そして彼らに関わる健常の人も、アートによって,人間としての誇りを回復しようということだ。この施設にも,障がいのある人によるアートは展示されている。聴覚障害の人たちの絵は確かにすばらしい。しかし、アートへの取り組みがあまりにもステレオタイプ化している。作風も非常に似通っている。ましてや知的障がいの人のアート作品は全くないのだ。鳩目ホックの横部屋では,マスクの袋詰め作業が行われていた。
午後からは観光。昼食時に,伊藤愛子さんが体調を崩したので,急遽最寄りのホテルへ駆け込んだ。北野さんと中井さんが看病についた。僕たちは,豫園や新天地に行った。そして、最後の晩餐。上海側は,フォーラムの司会をした周新建さんや上海障碍者連合会国際部のゴッドマザー的な沈立群さんたちが参加してくれた。途中で,岡部さんと沈さんが抜けて,愛ちゃんを病院へ連れて行った。僕は,周さんに僕のワークショップの感想を聞いてみた。周さんはダンサーでもあるのだ。「あなたのワークショップはとてもおもしろかったけれど、あれはダンスではないと思います。」という感想だった。僕は,「あなたのいうダンスとは、どういうものですか。」と聞き返した。周さんにとっては,舞台の上で何人もの人が振りを合わせて行うのがダンスということだった。
僕は,僕なりのダンス観をじっくりと、まずはブンセイさんに説明した。伝統のこと,ダンスにおける自由のこと,即興のこと,障がいある人の表現の可能性のこと,そして現代の社会においてそういった表現がどういう意味を持つかっていうこと。ブンセイさんは目をクリクリさせながら,僕の話をしっかり聞いてくれて,それを目にも止まらぬ早さでペラペラと周さんに説明しはじめた。今回のフォーラムに備えて彼女は,岡部さんたちとのやり取りを通じて、すでにいろいろ勉強して,興味を持ってくれていたので、かなり理解してくれているようだった。
次第に周さんの顔が変わりはじめた。たぶん、すぐには理解してもらえないだろうけど,次へつながる手応えは感じた。「あなたがワークショップを通じて,自由を探そうとしていることは分かりました。」と笑顔で言ってくれた。
病院へ行った愛ちゃんは大事にいたらずにすんだようだった。
12月12日
4時30分起床。6時前にホテルを出て空港へ向かった。早朝なので,1時間弱で着いた。5日目になって,はじめて陽光が射した。青空は見えなかったが,雲の向こうに太陽があるのが感じられた。
先週に引き続き、またしても関空10時50分集合。たんぽぽの家から、理事長の播磨靖夫さん、スタッフで今回はプレゼンもする岡部太郎さん,僕のダンスパートナーの伊藤愛子さん、今乗ってる画家の山野将志さん、プレゼン兼山野さんケアの藤井克英さん、美術ワークショップ担当の中井幸子さん、愛ちゃんケアの北野しのぶさんが4階ロビーに集まっている。愛ちゃんのお母さんと送迎の中川さんも。
12時50分発、上海航空機で出発。機内食のスパゲッティを食べると、あっという間に14時過ぎ(時差1時間)上海着。イミグレーションが少し込んだが無事入国。はじめての中国上陸!イミグレーションの係官は,ちょっと見、無愛想だが,よく見ると憮然とした顔の下に親しみやすい顔が見え隠れしている。僕の前にいた中央アジアらしき人の旅行者のパスポートのビザを寄ってたかってルーペで覗き込んでいるのもちょっと芝居がかった感じで、みんな楽しそう。両替場の人民服みたいなちょっとダボダボの制服を着たガードマンも,聞きもしないのに,僕が持っているスコットランド・ポンドを見て,「それは無理だよ。」と話しかけてくる。人と人の距離が近い感じ。
上海障碍者連合会国際部のメンバーで通訳を兼ねている聞セイ(女偏に青:ブンセイ)さんと王安さんが迎えにきてくれていた。2時間ほど遅れて,福岡から工房まるの3人がやってくるので,空港内のバーガーキングで待つことに。聞さんは、中国の大学で日本語を学んだ後,岡山へ半年留学したという。半年とは思えないほど、日本語がとても流暢である。「私の名前はブンです。新聞の聞です。」と自己紹介するので、「僕は,新聞の新です。」と、僕も自己紹介した。目がクリクリと動き回る聡明な女性。
工房まるの代表の吉田修一さん、画家の柳田烈伸さん、ケアの池永健介さんが到着。吉田さんは黒いレザーのジャケット、柳田さんと池永さんは山高帽に眼鏡姿で,3人ともとてもファッショナブル。マイクロバスに乗って,市内へ。しかし、ラッシュ時で高速道路がひどい渋滞。運転手は雑疑団並みのテクニックで4車線の端から端までを使って,どんどん河をさかのぼって行く。僕はジャワで運転を覚えたので,こういうのには慣れているけど、それにしてもすごい運転。頭上を、リニアモーターカーが凄まじい勢いで通り過ぎていった。高速の両側のビル群はスモッグにけむっている。1時間半ほどでノーブルセンターというホテルに到着。吉田さんたちは,飛行機に乗っていた時間より長くなったよう。
播磨さんは,30年以上前から上海障碍者連合会と付き合いがあり,その中のひとりのラさんがこのホテルの支配人だったので,なにかといたれりつくせりだった。特別室に案内され,ガラスのぐるぐる回るテーブルを囲んでの食事になった。その日は,そのまま解散,就寝。僕はちょっと寝付けなかったので,小雨の降る中、ホテルの周りを散歩した。海外の初日は、いつも高ぶった気持ちになる。ヤッケのフードをかぶって、夜の上海の気配を感じにいった。ガードマンの目つき、商店のおじさんの態度,アスファルトの具合,車の飛ばし具合,食堂の窓の汚れ具合,マッサージ屋の女性の視線の粘り具合、街灯の薄暗さ,道行く人の視線の強さなどを感じながら、雨がオレンジの電灯に照らされる中を歩いた。6、7車線ある大きな道路に面して,古いアパート,タバコ屋,怪しいマッサージ店,汁そば屋などが並ぶ。ジャカルタと似た感じかな。寒いのを除けば。共産時代に建った集合住宅がなぜか懐かしく感じられた。ホテルのガードマンに柵をあけてもらって,部屋に戻って,おとなしく寝た。そういえば,ジョン・レノンの命日だったか。真珠湾開戦の日だったか。
12月9日
午後から,ART FOR ALLと題されたフォーラム。日中の障がいある人のアートに関する報告会。日本からは,播磨さん、岡部さん,藤井さん,吉田さんが発表を行った。中国では,障がい者のアートと言えば,聾唖者の絵や視角障害者の音楽などに限定されているとのことだった。それに比べると,日本では,知的障がいのある人のアートの取り組みが進んでいる。障がいのある人の独特のアートを商品化していくというのが,中国側の参加者の興味を引いているようだった。会場にたくさんいた聾唖者の参加者が、パワーポイントで映し出されるTシャツやマグカップになった障がいのある人の作品を盛んに撮影していた。中国側の発表で朱希さんが発表した農民の絵画はすばらしかった。学校で絵画の教育を受けていない農民が,自分たちの農村の生活や世界観を色鮮やかに描いている。会の終了後,朱希さんが農民の絵のカレンダーをくれた。来年行われる上海万博の記念グッズなので,立派なものである。しかし、農民が描いた/描かされた万博会場や都会の絵は,全く面白くなかった。
夜は、歓迎会だった。レストランに招かれた。日本語,中国語,英語が乱れ飛んでの賑やかなパーティになった。佐久間新というのは,中国読みでは,ZUO JIU JIAN XINとなると教えてもらった。シンは、XINで同じ。体調を崩してパーティを欠席した岡部太郎さんの名前は,カンプー・タイラーと発音するようで、昼間,彼はしきりに自慢していたのだった。料理は,おいしかった。特に豚肉と皮と脂を餅米で炊いたのがおいしかった。河魚の蒸し物もおいしかったが,これはこの前の週にジョグジャで食べたカカップ(鯛に似た海の魚)の蒸し物の方が一段上だった。飲物は、1939という数字の入った老酒のぬる燗がおいしかった。
12月10日
9時に紀勲初等技術職業訓練学校へ。まずは、副校長と担任の先生と打ち合わせ。海外の学校でワークショップをする時には、事前に先生に対してこちらの意図を十分に説明することが大切だということが、ヨーロッパでの経験を経て分かってきたので,丁寧に行った。僕と愛ちゃんの担当は、午前の90分。まずは、二人で即興で20分ほど踊って,残りの60分をワークショップにあてるという予定だった。愛ちゃんとどこでパフォーマンスするかの場所を下見。即興するには,場所選びが重要だ。少し寒くて雨が降りそうだったが,運動場でやることにした。空気が動いているし,伸びやかな気持ちをみんなで感じられそうな気がしたからだ。10時過ぎ、愛ちゃんと運動場でパフォーマンスを始めた。障がいのある30人の生徒たち,先生,日本から来たメンバー、カメラマンが取り囲んでいる。踊りはじめてすぐ、ふっと後ろを見ると,生徒たちが数人が踊りたそうに近づいてきている。すぐに踊りの輪ができた。輪はあちらこちらへ動いたり,解散したり,また別の場所にあらわれたり、次から次へと踊りの輪が出来た。小雨が降ってきたので,みんなに中に入ろうと踊りながら合図を送った。ちょうど予定時間の20分くらいだった。
残りの60分は,教室でいろいろとからだを動かした。17歳から25歳の生徒たちは,個性的でパフォーマンス力のある人が多かった。子供よりも,これくらいの年になるといろんな経験を経て,存在に味が出てくる。その存在感を生かしたダンスを引き出しすのが大切だ。最後は,僕が波になって,みんなが海になったり,海の生き物になったりした。11時30分に終了。
昼ご飯は,職業訓練学校なので、生徒たちが作ったピザ。卒業すると、大手ピザチェーンに就職するメンバーがいるそうだ。それから、水餃子風ワンタンのスープ。どんぶりに10個以上入っている。ごちそう続きだったので、素朴なメニューがうれしい。ピザも水餃子もおいしかった。
昼からは,山野さんと柳田さんのグループに分かれての美術ワークショップ。柳田さんは脳性麻痺があり,からだの制御が効きにくい。常に首や手、上半身に力が入っていて,からだが律動し続けている。彼のすばらしい絵は見たことがあったので,どうやって描くのか興味があった。柳田さんは、ペアを作って、お互いに顔を描くというワークショップを行った。床に座った柳田さんは、上体を前後左右に揺らしながらも目はしっかり相手を捉え,からだを立体的にスキャンしていく。これだという構図と表情を探っているようだ。やがて、筆記具を手に持って,左手が動き始める。震えながら紙の上を,時には紙のない所まで動きながら,あちらこちらに動いていく。時折,筆記具が紙にあたると、繊細な線が無数に生まれてくる。そして、ここだ、という瞬間に,力強い迷いのないしっかりした線が紙に刻み込まれる。目,鼻,口が、そうでしかない確かさでたち現れる。
http://d.hatena.ne.jp/rakukaidou/20080201/p1
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=054
柳田さんの部屋を中心に見たので,山野さんの方はちらっと見るだけだったが,時折気合いを入れる声を上げながら,一心に筆を動かし続けていたようだ。中井さんが,参加メンバーの特徴を見ながら,きめ細かいアドバイスを送っていた。山野さんの絵を描く姿に,だんだんと風格が備わっているように感じた。
http://www.ableartcom.jp/imglist.php?ano=004
12月11日
今日もどんよりしている。上海へ来て,太陽を見ていない。どころか雲も見ていない。ずっとスモッグが立ちこめているのだ。午前中,静安地区にある陽光の家総合福祉センターへ。バスの中では,時折ギギギギと音が聞こえる。マイクロバスの運転手がダッシュボードに、小さなプラスチックケースに入れてコオロギを飼っているのだ。市内の中心部へ。8万人収容の巨大なスタジアムや美術館、マンション群,デパート,ショッピングセンターを通り過ぎる。やっとテレビで見るような上海へ来た感じ。少し落ち着いた界隈へ入ると、マイクロバスは真新しいビルの前に止まった。正確に言うと,ビルは古いんだけど,博覧会のパビリオンのようにきれいにリフォームされているビルの前。耳から細いヘッドマイクをつけた170センチの美人コンパニオンが迎えてくれる。横には,同じく170センチの先輩がサポートというかチェックしている。黄緑色のオブジェやサインボードに書かれた施設のコンセプトを説明していく。播磨さんがつたえ続けた理念が多いに反映されている。エレベータで階を上がっていく。来年の万博に向けて,上海では障がい者の問題への取り組みが進んでいるという。昨日の職業訓練学校もこの陽光の家も、モデルケースなんだろう。上海中で一番いい所なんだろう。播磨さんや岡部さんは,なんども上海へ来ているので,もっといろんな所を見せてもらっているとのことだ。中国での障がい者の立場はまだまだ悲惨で,施設や学校へ来られているのは、軽度で比較的裕福な家族の子供とのことだ。
3階の部屋へ上がっていくと,障がいのある人たちが部屋の中で作業をしていた。鳩目ホックを台紙にはめる作業。プチプチと1枚に100個ほど留めていく。各自には,能力に応じてノルマが決められているようで,仕上がり具合を検品し,個数を数える係の人間がいる。播磨さんがしゃべりかけてきた。「こういう作業では,誇りを持てないんです。」僕は,通訳の仕事で刑務所の中へ行くこともあるが,同じ風景である。もちろん、工場での流れ作業など、一般の人でも単純作業に従事している人は多い。僕もそんな仕事をしたこともある。しかし、そこでも,僕たちは懸命に創意や工夫を見いだし,自分の作業になにがしかのやりがいを見いだそうとするし、その仕事が社会のために役に立っていると実感することもある。
播磨さんの希望は,障害のある人,そして彼らに関わる健常の人も、アートによって,人間としての誇りを回復しようということだ。この施設にも,障がいのある人によるアートは展示されている。聴覚障害の人たちの絵は確かにすばらしい。しかし、アートへの取り組みがあまりにもステレオタイプ化している。作風も非常に似通っている。ましてや知的障がいの人のアート作品は全くないのだ。鳩目ホックの横部屋では,マスクの袋詰め作業が行われていた。
午後からは観光。昼食時に,伊藤愛子さんが体調を崩したので,急遽最寄りのホテルへ駆け込んだ。北野さんと中井さんが看病についた。僕たちは,豫園や新天地に行った。そして、最後の晩餐。上海側は,フォーラムの司会をした周新建さんや上海障碍者連合会国際部のゴッドマザー的な沈立群さんたちが参加してくれた。途中で,岡部さんと沈さんが抜けて,愛ちゃんを病院へ連れて行った。僕は,周さんに僕のワークショップの感想を聞いてみた。周さんはダンサーでもあるのだ。「あなたのワークショップはとてもおもしろかったけれど、あれはダンスではないと思います。」という感想だった。僕は,「あなたのいうダンスとは、どういうものですか。」と聞き返した。周さんにとっては,舞台の上で何人もの人が振りを合わせて行うのがダンスということだった。
僕は,僕なりのダンス観をじっくりと、まずはブンセイさんに説明した。伝統のこと,ダンスにおける自由のこと,即興のこと,障がいある人の表現の可能性のこと,そして現代の社会においてそういった表現がどういう意味を持つかっていうこと。ブンセイさんは目をクリクリさせながら,僕の話をしっかり聞いてくれて,それを目にも止まらぬ早さでペラペラと周さんに説明しはじめた。今回のフォーラムに備えて彼女は,岡部さんたちとのやり取りを通じて、すでにいろいろ勉強して,興味を持ってくれていたので、かなり理解してくれているようだった。
次第に周さんの顔が変わりはじめた。たぶん、すぐには理解してもらえないだろうけど,次へつながる手応えは感じた。「あなたがワークショップを通じて,自由を探そうとしていることは分かりました。」と笑顔で言ってくれた。
病院へ行った愛ちゃんは大事にいたらずにすんだようだった。
12月12日
4時30分起床。6時前にホテルを出て空港へ向かった。早朝なので,1時間弱で着いた。5日目になって,はじめて陽光が射した。青空は見えなかったが,雲の向こうに太陽があるのが感じられた。
(佐久間新)
12月2日
9時関空集合。4階の出発口で野村誠さんと薮公美子さんと合流。ガルーダ航空でデンパサールへ。モニターでインドネシア映画を2本見る。デンパサールの国内線出発口近くでクイチャウ・ゴレン(焼ききしめん)を食べて,ジョグジャへ。イウィンさんの弟のアンバルとブナが迎えにきてくれている。タマン・シスワ通りの我が家へ。イウィンさんや家族が出迎えてくれる。下宿をしている筑波大学のエリナさんとも初対面。彼女はISIの舞踊科に留学中。ビールで乾杯しながら,みんなで談笑。天井の高いホールに寝転がるのが気持ちいい。からだがしっとりしてくる。
12月3日
朝からジョグジャの愛車キジャン・ローバーでISIへ。やぶちゃんが来年から留学したいというので、その下見が今回の旅の主な目的。彼女は,イギリスのヨーク大学でコミュニティ・ミュージックを研究している時に,ガムランに出会った。先月、ヨーク大学に修士論文を提出したので,一緒に本場のガムランを見に来たのだ。ISIは教官と学生が、台湾ツアーへ30数人出かけているとかで,ちょっと寂しい。それでも、舞踊科とカラウィタン(ガムラン)科を見学。昼前に我が家へ戻る。今年は、秋にISIから6人とプジョクスマン舞踊団から11人が来日して,合同のコンサートを行った。その時のみんなと普段からお世話になっている方々を招いてのパーティ。30人くらいが集まってくれた。我が家に下宿しているベネズエラ人のルイサナさんともやっと会えた。
ジョグジャで、フェスティバル・ムシック・コンテンポレール(現代音楽フェスティバル)を主催しているマイケル・アスモロさんといろいろとしゃべった。このフェスに、僕と野村さんがやっているキーボード・コレオグラフィーで参加できないかと考えていたが,すこし難しい感じだった。今のところこのフェスティバルでアスモロさんは、ジョグジャの若い世代の音楽家に、西洋の古典的!現代音楽を、まずは学んで欲しいという教育的な意図があるようだった。
夜は、RRI(国営ラジオ局)のホールで行われていたクトプラ(ガムラン伴奏付き大衆演劇)へ。今まで敬遠していてあまり見ていなかったが,とても面白かった。芸達者な役者が,芝居,歌,ダンスを自由自在に横断していた。笑いを取るのも実にうまい。「桃太郎」のようでもあり、マイケル・ジャクソンのようでもあった。
12月4日
マリオボロ通りへ。車を止めて,ワヤン・カンチル(子供ためのワヤン)で有名なルジャルさんの家の前を通りかかると,マルガサリのユリちゃんがルジャルさんとワヤンを並べていた・・・。野村さんとやぶちゃんとパダン料理を食べに行く。テールスープがめっぽううまい。野村さんは汗をダラダラ。アルン・アルン・スラタン(王宮南広場)近くにあるギャラリーへ。野村さんが福岡トリエンナーレで知り合ったジョグジャの芸術家アンキさんが共同で借りているスペース。中庭が気持ちいい。ジョグジャのファイン・アートの人たちは,快適な中庭を作る名人だ。アンキさんは、なかなかぶっ飛んでいて,音楽のイベントも企画しているようだ。ここでも、なにかできそう。
夜は,ジョグジャから車で1時間のウォノサリで行われているフェスティバル・スンドラタリ(舞踊劇フェスティバル)へ。芸術高校の校長先生であるスナルディさんが車を出してくれた。僕のと2台で,総勢10人で行った。ジョグジャ州の県対抗のコンテストである。イウィンさんは,1998年に最優秀コレオグラファー賞、1999年に最優秀コスチューム賞を取っている。各県の出し物が25分×5県。小道具、大道具,影絵もあり、子供も出てきたりで、かなり賑やかだ。
23時の終演後,帰りにビーフン・ゴレン(焼きビーフン)とビーフン・ゴドック(汁ビーフン)を出す店に寄ってから帰宅。ブナはフラフラだったが、ビーフン・ゴドックを食べたところで沈没。天井の高いホールで、野村さんとやぶちゃんと感想を語りながら明け方近くまでしゃべった。僕は,留学中から、このスンドラタリがあまり好きではなかった。というか、憎んでもいた。ジャワ舞踊のとても大切なところを削り取っていっているような気がしたからだ。どんどんとテンポが速くなり,動きが派手になっている。今回も,同じような感想を持った。もちろん、所々に面白い試みもあるし,能力の高い舞踊家もいるけれども、全体としては,新しい創作をしようとしているが,あらたな形式がうまれ、そこで停滞している感じなのだ。古典に迫り,超えて行くような何かが感じられないのだ。
12月5日
朝からアンバルのバイクを借りて,ブナを後ろに載せて出かける。まずは,1995年の留学中にISIで同期だったちのさんの家へ。彼女はバティックを学んで,その後、ジャワ人と結婚して,一時は広島にも住んで,今はジャワへ戻ってきて,一児の母をしている。その間,何度か会っていたが,しゃべるのは久しぶりだった。留学中は、ビールを一緒に飲める貴重な友人だった。ニティプラヤンのちのさんのお宅から少し南へ,マドキスモ砂糖工場の近くにあるジニさんーとランテップさん夫婦の家へ。ジニーさんは,1996年にISIへ留学へやってきた。1年後輩である。韓国系アメリカ人の彼女とは,その後ずっと関係が続いている。お互いジャワ人の舞踊家と結婚して,子供を持つようになった。舞踊がとても上手な彼女と同じ時期に留学できたことは,僕にとって,とても運命的なことだった。このことは、いずれゆっくり書かねば・・・。彼女たちには,ジーファンとモーハンという二人の男の子がいる。半年違いのブナとジーファンは、互いに意識しながら育ってきている。久々の再会,5歳と6歳の二人は自我が芽生えはじめたのか、はじめは照れくさそうにしていたが,3歳のモーハンが元気にはしゃいでいると、やがて気持ちがほぐれてきたようだった。
昼からは,みんなで買い物に出かけ,あっと言う間に夕方に。アスモロさんがやってきた。付き合いがいいなぁ。ちのさんと息子さんのセトくんもやってきた。ジャワで大きくなったけど,お母さんとは日本語で話しているので,スムーズな日本語を話す。はにかむ様子がかわいい。7時になった,みんなバイバイ。また、近いうちにやってきます!!
12月7日
夕方まで,大阪刑務所で通訳の仕事。明日からは,なんと上海へ。「日中の障碍者による文化創造と社会参加」というイベントに参加することになっている。奈良のたんぽぽの家と福岡の工房まるのみなさんと、フォーラムとワークショップに参加する予定。僕は、伊藤愛子さんとパフォーマンスとワークショップをする。上海でも,ペットボトルや波をやってみようかな?また,報告します。パッキングをしなければ・・・。
9時関空集合。4階の出発口で野村誠さんと薮公美子さんと合流。ガルーダ航空でデンパサールへ。モニターでインドネシア映画を2本見る。デンパサールの国内線出発口近くでクイチャウ・ゴレン(焼ききしめん)を食べて,ジョグジャへ。イウィンさんの弟のアンバルとブナが迎えにきてくれている。タマン・シスワ通りの我が家へ。イウィンさんや家族が出迎えてくれる。下宿をしている筑波大学のエリナさんとも初対面。彼女はISIの舞踊科に留学中。ビールで乾杯しながら,みんなで談笑。天井の高いホールに寝転がるのが気持ちいい。からだがしっとりしてくる。
12月3日
朝からジョグジャの愛車キジャン・ローバーでISIへ。やぶちゃんが来年から留学したいというので、その下見が今回の旅の主な目的。彼女は,イギリスのヨーク大学でコミュニティ・ミュージックを研究している時に,ガムランに出会った。先月、ヨーク大学に修士論文を提出したので,一緒に本場のガムランを見に来たのだ。ISIは教官と学生が、台湾ツアーへ30数人出かけているとかで,ちょっと寂しい。それでも、舞踊科とカラウィタン(ガムラン)科を見学。昼前に我が家へ戻る。今年は、秋にISIから6人とプジョクスマン舞踊団から11人が来日して,合同のコンサートを行った。その時のみんなと普段からお世話になっている方々を招いてのパーティ。30人くらいが集まってくれた。我が家に下宿しているベネズエラ人のルイサナさんともやっと会えた。
ジョグジャで、フェスティバル・ムシック・コンテンポレール(現代音楽フェスティバル)を主催しているマイケル・アスモロさんといろいろとしゃべった。このフェスに、僕と野村さんがやっているキーボード・コレオグラフィーで参加できないかと考えていたが,すこし難しい感じだった。今のところこのフェスティバルでアスモロさんは、ジョグジャの若い世代の音楽家に、西洋の古典的!現代音楽を、まずは学んで欲しいという教育的な意図があるようだった。
夜は、RRI(国営ラジオ局)のホールで行われていたクトプラ(ガムラン伴奏付き大衆演劇)へ。今まで敬遠していてあまり見ていなかったが,とても面白かった。芸達者な役者が,芝居,歌,ダンスを自由自在に横断していた。笑いを取るのも実にうまい。「桃太郎」のようでもあり、マイケル・ジャクソンのようでもあった。
12月4日
マリオボロ通りへ。車を止めて,ワヤン・カンチル(子供ためのワヤン)で有名なルジャルさんの家の前を通りかかると,マルガサリのユリちゃんがルジャルさんとワヤンを並べていた・・・。野村さんとやぶちゃんとパダン料理を食べに行く。テールスープがめっぽううまい。野村さんは汗をダラダラ。アルン・アルン・スラタン(王宮南広場)近くにあるギャラリーへ。野村さんが福岡トリエンナーレで知り合ったジョグジャの芸術家アンキさんが共同で借りているスペース。中庭が気持ちいい。ジョグジャのファイン・アートの人たちは,快適な中庭を作る名人だ。アンキさんは、なかなかぶっ飛んでいて,音楽のイベントも企画しているようだ。ここでも、なにかできそう。
夜は,ジョグジャから車で1時間のウォノサリで行われているフェスティバル・スンドラタリ(舞踊劇フェスティバル)へ。芸術高校の校長先生であるスナルディさんが車を出してくれた。僕のと2台で,総勢10人で行った。ジョグジャ州の県対抗のコンテストである。イウィンさんは,1998年に最優秀コレオグラファー賞、1999年に最優秀コスチューム賞を取っている。各県の出し物が25分×5県。小道具、大道具,影絵もあり、子供も出てきたりで、かなり賑やかだ。
23時の終演後,帰りにビーフン・ゴレン(焼きビーフン)とビーフン・ゴドック(汁ビーフン)を出す店に寄ってから帰宅。ブナはフラフラだったが、ビーフン・ゴドックを食べたところで沈没。天井の高いホールで、野村さんとやぶちゃんと感想を語りながら明け方近くまでしゃべった。僕は,留学中から、このスンドラタリがあまり好きではなかった。というか、憎んでもいた。ジャワ舞踊のとても大切なところを削り取っていっているような気がしたからだ。どんどんとテンポが速くなり,動きが派手になっている。今回も,同じような感想を持った。もちろん、所々に面白い試みもあるし,能力の高い舞踊家もいるけれども、全体としては,新しい創作をしようとしているが,あらたな形式がうまれ、そこで停滞している感じなのだ。古典に迫り,超えて行くような何かが感じられないのだ。
12月5日
朝からアンバルのバイクを借りて,ブナを後ろに載せて出かける。まずは,1995年の留学中にISIで同期だったちのさんの家へ。彼女はバティックを学んで,その後、ジャワ人と結婚して,一時は広島にも住んで,今はジャワへ戻ってきて,一児の母をしている。その間,何度か会っていたが,しゃべるのは久しぶりだった。留学中は、ビールを一緒に飲める貴重な友人だった。ニティプラヤンのちのさんのお宅から少し南へ,マドキスモ砂糖工場の近くにあるジニさんーとランテップさん夫婦の家へ。ジニーさんは,1996年にISIへ留学へやってきた。1年後輩である。韓国系アメリカ人の彼女とは,その後ずっと関係が続いている。お互いジャワ人の舞踊家と結婚して,子供を持つようになった。舞踊がとても上手な彼女と同じ時期に留学できたことは,僕にとって,とても運命的なことだった。このことは、いずれゆっくり書かねば・・・。彼女たちには,ジーファンとモーハンという二人の男の子がいる。半年違いのブナとジーファンは、互いに意識しながら育ってきている。久々の再会,5歳と6歳の二人は自我が芽生えはじめたのか、はじめは照れくさそうにしていたが,3歳のモーハンが元気にはしゃいでいると、やがて気持ちがほぐれてきたようだった。
昼からは,みんなで買い物に出かけ,あっと言う間に夕方に。アスモロさんがやってきた。付き合いがいいなぁ。ちのさんと息子さんのセトくんもやってきた。ジャワで大きくなったけど,お母さんとは日本語で話しているので,スムーズな日本語を話す。はにかむ様子がかわいい。7時になった,みんなバイバイ。また、近いうちにやってきます!!
12月7日
夕方まで,大阪刑務所で通訳の仕事。明日からは,なんと上海へ。「日中の障碍者による文化創造と社会参加」というイベントに参加することになっている。奈良のたんぽぽの家と福岡の工房まるのみなさんと、フォーラムとワークショップに参加する予定。僕は、伊藤愛子さんとパフォーマンスとワークショップをする。上海でも,ペットボトルや波をやってみようかな?また,報告します。パッキングをしなければ・・・。
11月28日
インドネシア人の元慰安婦スハルティさんの証言、インドネシア人慰安婦問題の研究家であるエカ・ヒンドラティさんの講演,さらにインドネシアに17年滞在されて、慰安婦問題にも取り組まれている木村公一牧師の話が、大阪商工会館であった。主催は,大阪AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)。僕は、通訳として参加した。
木村牧師による紹介の後,80歳になる車いすに乗ったスハルティさんが話をはじめた。僕は、スハルティさんの顔の真横、やや後ろに座って,通訳を始めた。通訳する時の感覚は、すこし即興で踊る時と似ている。頭をクリアにして,耳を澄まし,ピーンと集中して,インドネシア語の声を聴き取って行く。インドネシア語は,文節の固まりぐらいでどんどん日本語になって行く。文章を聞きながら、文節を組み立てながら、仮の文章を口から流していく。自分の頭を受信機にして,変換機にして,話者のことばを受け取って行くという受信機的な状態でありながら,自分が語りつつある文章の中に、矛盾点がないかがチェックされていく。矛盾点が生まれた時に,赤いランプが点灯する感じ。同時に,言葉の使い回しがきつすぎないか,弱すぎないかなども,言葉を口から出しながら、センサーをくぐらせていってチェックし、文章を完成させていく感じ。地面に杖で引っかかりながら,走っていく感じ。頭が受像機の状態になっているので,話者の感情も入ってきやすい。ちょっといたこみたい。
スタート
15歳の時,各村から50人供出しなければならないという日本軍の命令があると,村長代理が人探しにやってくる。学校へ通わせてやると嘘をつかれ,家族と引き離され,スラバヤへ連れて行かれる。船に乗り,3日3晩かかってボルネオ島のバリクパパンに到着する。
ここまでの話でも,細部至る説明が加わるので,かなり長い。
港からトラックで連れて行かれたところが慰安所だと分かり,だまされたことを知る。そして、最初の日本人がやってくる。油田の町サンガサンガからやってきた日本人のOが自分を指名し,ホテルへ連れて帰る。そして、セックスがなんであるかも知らない私が,レイプされる。1週間近く,つくすことを要求され続ける。
スハルティさんの声が詰まる。僕も一緒だ。
その後,慰安所に戻り、1時間にひとり,1日10時間10人に対する奉仕が始まる。(軍票が配られるだけで,彼女には1銭も支払われない。)数ヶ月たち,戦火がひどくなる。日本兵もいなくなる。慰安所は閉鎖されることになる。ジャワに帰りたいが、戦火で船はないという。とにかくバンジャルマシンのこの住所のところへ行けと,慰安所の責任者から手紙を渡される。ジャングルの道なき道を歩き始める。何日かかるのかも分からない。疲れれば,木の下で寝、体力が回復するまで2、3日休み,再び歩き出すという繰り返し。途中でダヤック人に出会うこともあり,シンコン(キャッサバ)やバナナを分けてもらう。そして、50日以上かけて,バンジャルマシンの近くの村に到着する。村の端にしゃがんでいると,やがて村人の輪ができる。部族の長の家へ連れて行かれる。バンジャルマシンへ行きたいことを告げると,長の計らいで,ゴムを運ぶトラックへ乗せてもらう。住所を運転手へ見せると,そこは立ち入り禁止区域だと言う。最後の200メートルを歩いて、ルマ・パンジャン(長い家)へ到着する。掃除夫と話し,妻の料理人に食べ物を分けてもらう。するとそこへ、ルマ・パンジャンから20人ほどの少女がやってくる。直感的に同じ境遇であることを互いに察知し,少女たちが,駆けつけて抱きしめてくれる。数日たつと,日本人のTが現れる。そして、このルマ・パンジャン(慰安所)で、再び慰安婦として,戦争が終わるまでの数ヶ月働くことになってしまう。戦後は,しばらくバンジャルマシンのレストランで働き,その後、結婚する。夫の仕事について,あちらこちら転勤する。それから数年経って,やっと故郷のジャワへ戻った。
休憩後,エカさんが自分の活動のことを話す。30代半ばの快活な女性だ。ジャカルタの日本大使館前で最前列でデモをする姿をテレビのニュースで流されて,有名になってしまったと笑っている。その時に、インドネシア政府の社会省の汚職について抗議した姿も映っていて,その後で社会省に行った時、「あなたがあのエカだね。」と名指しされたそうだ。とってもたくましい美人。
どうして、慰安婦問題に取り組むようになったのか,木村牧師との共著「MOMOYE MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」,慰安婦問題の歴史,両国政府の約束によってできたアジア女性基金の欺瞞、社会省の汚職、そして現在に至るまで拉致され続けられているマルク州ブル島の慰安婦についてなどを、早口で、力強く時にはアジるように語った。
短い打ち合わせしかできなかったので,苦労したが、なんとか通訳終了。
14時に始まった会は、17時に終わった。
11月29日
近鉄電車で、名古屋へ向かった。スハルティさん、エカさん、付き添いのアヌグラさん、木村牧師、そして僕。電車の中で,木村牧師に、昨日のスハルティさんの話を聞いて浮かんだ疑問を聞いてみた。
50日間のジャングルでの苦難を経て,トラックで200メートル手前に下ろされてルマ・パンジャンを見た時に,スハルティさんたちは直感的にそれが慰安所であると分からなかったのだろうか。どうして、再び慰安所に自分たちから行ってしまったのだろう,という疑問である。
木村牧師がうなった。それが悲劇なんだと。
慰安所は,とても過酷な場所であったが,戦時中で家族から離れた彼女たちにとっては、唯一の生活の保障をしてくれる場でもあった。また、彼女たちには、権力と暴力を背景とした日本軍からは逃れられないという恐怖心もあっただろう、と。
車内で,エカさんの著書「MOMOYE MEREKA MEMANGGILKU (モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」を読んだ。ここで描かれているのは,バンジャルマシンの慰安所にいたマルディエムさんだ。本には,スハルティさんも出てくる。つらい体験が描かれているが,慰安所の日常も描かれている。
昼頃,会場の桜花会館到着。なんと皮肉にも,日本軍と縁が深い会場である。スケジュールと内容は、ほぼ昨日と同じ,僕自身は、2回目だったので,昨日よりはうまく通訳ができた。聴衆は,150人ほど。終演後,喫茶室で軽食を食べ,名古屋駅へ。スハルティさんたちはそのまま東京へ。翌日は,衆議院会館での証言だ。超ハードスケジュールである。僕は、神戸のHIROSさんの家へ向かった。あまりにズシンとくる話を聞いたので,こころのにじみを少し吸い取ってもらおうと思ったのだ。言葉で言い表せないほどのつらい記憶を人前で語ることは,ものすごいエネルギーがいることだろう。そうやって絞り出された証言者の声に,耳を傾けること、そして社会に働きかけることが、被害者に少しでも力を与えると願いたい。東京,福岡、鹿児島へ回る予定。
アジア女性基金
http://www.awf.or.jp/index.html
各地での日程
http://blogs.yahoo.co.jp/siminkjp/30551885.html
大阪での様子
http://87115444.at.webry.info/200911/article_18.html
日本語読めるインドネシア慰安婦問題の本 マルディエムさんのことが描かれている
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%82%60%81D%83u%83f%83B%81E%83n%83%8B%83g%83m
マルディエムさんのドキュメンタリー映画
http://kanatomoko.jp/maru/mal_kaisetsu.html
インドネシア人の元慰安婦スハルティさんの証言、インドネシア人慰安婦問題の研究家であるエカ・ヒンドラティさんの講演,さらにインドネシアに17年滞在されて、慰安婦問題にも取り組まれている木村公一牧師の話が、大阪商工会館であった。主催は,大阪AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)。僕は、通訳として参加した。
木村牧師による紹介の後,80歳になる車いすに乗ったスハルティさんが話をはじめた。僕は、スハルティさんの顔の真横、やや後ろに座って,通訳を始めた。通訳する時の感覚は、すこし即興で踊る時と似ている。頭をクリアにして,耳を澄まし,ピーンと集中して,インドネシア語の声を聴き取って行く。インドネシア語は,文節の固まりぐらいでどんどん日本語になって行く。文章を聞きながら、文節を組み立てながら、仮の文章を口から流していく。自分の頭を受信機にして,変換機にして,話者のことばを受け取って行くという受信機的な状態でありながら,自分が語りつつある文章の中に、矛盾点がないかがチェックされていく。矛盾点が生まれた時に,赤いランプが点灯する感じ。同時に,言葉の使い回しがきつすぎないか,弱すぎないかなども,言葉を口から出しながら、センサーをくぐらせていってチェックし、文章を完成させていく感じ。地面に杖で引っかかりながら,走っていく感じ。頭が受像機の状態になっているので,話者の感情も入ってきやすい。ちょっといたこみたい。
スタート
15歳の時,各村から50人供出しなければならないという日本軍の命令があると,村長代理が人探しにやってくる。学校へ通わせてやると嘘をつかれ,家族と引き離され,スラバヤへ連れて行かれる。船に乗り,3日3晩かかってボルネオ島のバリクパパンに到着する。
ここまでの話でも,細部至る説明が加わるので,かなり長い。
港からトラックで連れて行かれたところが慰安所だと分かり,だまされたことを知る。そして、最初の日本人がやってくる。油田の町サンガサンガからやってきた日本人のOが自分を指名し,ホテルへ連れて帰る。そして、セックスがなんであるかも知らない私が,レイプされる。1週間近く,つくすことを要求され続ける。
スハルティさんの声が詰まる。僕も一緒だ。
その後,慰安所に戻り、1時間にひとり,1日10時間10人に対する奉仕が始まる。(軍票が配られるだけで,彼女には1銭も支払われない。)数ヶ月たち,戦火がひどくなる。日本兵もいなくなる。慰安所は閉鎖されることになる。ジャワに帰りたいが、戦火で船はないという。とにかくバンジャルマシンのこの住所のところへ行けと,慰安所の責任者から手紙を渡される。ジャングルの道なき道を歩き始める。何日かかるのかも分からない。疲れれば,木の下で寝、体力が回復するまで2、3日休み,再び歩き出すという繰り返し。途中でダヤック人に出会うこともあり,シンコン(キャッサバ)やバナナを分けてもらう。そして、50日以上かけて,バンジャルマシンの近くの村に到着する。村の端にしゃがんでいると,やがて村人の輪ができる。部族の長の家へ連れて行かれる。バンジャルマシンへ行きたいことを告げると,長の計らいで,ゴムを運ぶトラックへ乗せてもらう。住所を運転手へ見せると,そこは立ち入り禁止区域だと言う。最後の200メートルを歩いて、ルマ・パンジャン(長い家)へ到着する。掃除夫と話し,妻の料理人に食べ物を分けてもらう。するとそこへ、ルマ・パンジャンから20人ほどの少女がやってくる。直感的に同じ境遇であることを互いに察知し,少女たちが,駆けつけて抱きしめてくれる。数日たつと,日本人のTが現れる。そして、このルマ・パンジャン(慰安所)で、再び慰安婦として,戦争が終わるまでの数ヶ月働くことになってしまう。戦後は,しばらくバンジャルマシンのレストランで働き,その後、結婚する。夫の仕事について,あちらこちら転勤する。それから数年経って,やっと故郷のジャワへ戻った。
休憩後,エカさんが自分の活動のことを話す。30代半ばの快活な女性だ。ジャカルタの日本大使館前で最前列でデモをする姿をテレビのニュースで流されて,有名になってしまったと笑っている。その時に、インドネシア政府の社会省の汚職について抗議した姿も映っていて,その後で社会省に行った時、「あなたがあのエカだね。」と名指しされたそうだ。とってもたくましい美人。
どうして、慰安婦問題に取り組むようになったのか,木村牧師との共著「MOMOYE MEREKA MEMANGGILKU(モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」,慰安婦問題の歴史,両国政府の約束によってできたアジア女性基金の欺瞞、社会省の汚職、そして現在に至るまで拉致され続けられているマルク州ブル島の慰安婦についてなどを、早口で、力強く時にはアジるように語った。
短い打ち合わせしかできなかったので,苦労したが、なんとか通訳終了。
14時に始まった会は、17時に終わった。
11月29日
近鉄電車で、名古屋へ向かった。スハルティさん、エカさん、付き添いのアヌグラさん、木村牧師、そして僕。電車の中で,木村牧師に、昨日のスハルティさんの話を聞いて浮かんだ疑問を聞いてみた。
50日間のジャングルでの苦難を経て,トラックで200メートル手前に下ろされてルマ・パンジャンを見た時に,スハルティさんたちは直感的にそれが慰安所であると分からなかったのだろうか。どうして、再び慰安所に自分たちから行ってしまったのだろう,という疑問である。
木村牧師がうなった。それが悲劇なんだと。
慰安所は,とても過酷な場所であったが,戦時中で家族から離れた彼女たちにとっては、唯一の生活の保障をしてくれる場でもあった。また、彼女たちには、権力と暴力を背景とした日本軍からは逃れられないという恐怖心もあっただろう、と。
車内で,エカさんの著書「MOMOYE MEREKA MEMANGGILKU (モモエ 彼らは私をそう呼んだ)」を読んだ。ここで描かれているのは,バンジャルマシンの慰安所にいたマルディエムさんだ。本には,スハルティさんも出てくる。つらい体験が描かれているが,慰安所の日常も描かれている。
昼頃,会場の桜花会館到着。なんと皮肉にも,日本軍と縁が深い会場である。スケジュールと内容は、ほぼ昨日と同じ,僕自身は、2回目だったので,昨日よりはうまく通訳ができた。聴衆は,150人ほど。終演後,喫茶室で軽食を食べ,名古屋駅へ。スハルティさんたちはそのまま東京へ。翌日は,衆議院会館での証言だ。超ハードスケジュールである。僕は、神戸のHIROSさんの家へ向かった。あまりにズシンとくる話を聞いたので,こころのにじみを少し吸い取ってもらおうと思ったのだ。言葉で言い表せないほどのつらい記憶を人前で語ることは,ものすごいエネルギーがいることだろう。そうやって絞り出された証言者の声に,耳を傾けること、そして社会に働きかけることが、被害者に少しでも力を与えると願いたい。東京,福岡、鹿児島へ回る予定。
アジア女性基金
http://www.awf.or.jp/index.html
各地での日程
http://blogs.yahoo.co.jp/siminkjp/30551885.html
大阪での様子
http://87115444.at.webry.info/200911/article_18.html
日本語読めるインドネシア慰安婦問題の本 マルディエムさんのことが描かれている
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%82%60%81D%83u%83f%83B%81E%83n%83%8B%83g%83m
マルディエムさんのドキュメンタリー映画
http://kanatomoko.jp/maru/mal_kaisetsu.html
(佐久間新)
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