5月26日
元マルガサリのまっちゃんと現マルガサリのカワカミさんと、京都の京北町にある丹波マンガン記念館へ出かけた。30日に、マンガン記念館閉館の記念イベントがあり、マルガサリが出演するのだけれど、僕は東京へ行っていて出られない。あまりにも残念なので、この日に出かけることにしたのだ。
豊能町の家を9時半に出発。国道477線に入ると、杉木立の中をガードレールの無い急カーブが続いている。時折現れる池が美しい。11時頃にマンガン記念館着。なんと火曜日は休館日。しかし、事前に高嶺さんにメールをしていて、家族で泊まり込んでいると聞いていたので、塀の横っちょから回り込んで中へ入ってみる。高嶺さんの本「在日の恋人」で見た作業場が見えてきた。チェーンソーや溶接機で作業をしている姿が見える。高嶺さんもいた。
坑道に電気がついているのを確認して、高嶺さんはイベントの舞台作り作業へ戻って行った。僕らは、早速坑道へ入ってみた。
ひんやりしている。年中10度から13度とのことだ。水が上から滴ってくる。中にも川が流れている。メインの通路からあらゆる方向へ坑道が延びている。マンガンという戦争中の武器には欠かせなかった鉱物を探し当てるために伸びた穴。移動するためのトンネルや自然現象で出来た鍾乳洞とは異なる欲望の暗闇だった。在日朝鮮人、非差別部落の人々が手掘りと発破で掘り進んだという。
坑道を出ると、暖かかった。小川が流れていた。顔を洗ってみた。水が冷たかった。記念館に入ると館長の李さんが女性記者にインタビューを受けていた。「丹波マンガン記念館の7300日」李龍植(解放出版)の出版記念だろう。
高嶺格さんの作品「在日の恋人」は、少し高台になったところにある坑道にある。というか坑道自体が作品だ。そこへ、李さん、記者、僕ら3人で向かった。途中でシマヘビが出た。「在日の恋人」坑道には、一人ずつ入らなければならなかった。まず、記者が入った。その間、李さんと少し話をした。高嶺さんの本に強面の人と書いてあった。今時珍しいパンチパーマをかけた風貌だったが、物腰は意外に柔らかかった。記者が出てきた。
「奥まで行く時は暗かったけど、戻って来る時は、明るく感じました。」
「暗いとこから見た方がよう見えるんや。世の中もそうや。」と、李さん。
ふたりは山を下りて行った。カワカミさんに続いて、僕も入った。幅約1.5メートル、高さ約2メートルの坑道をゆっくりと進んだ。所々に高嶺さんが作った焼きものがある。段々と暗くなって、すぐに何も見えなくなる。懐中電灯をたよりに進んでい行く。カビ臭い匂いとともに、根っこのオブジェが現れる。しばらく行った先で坑道がカーブしている。その奥にもさらにオブジェがある。ここで終点。
恐怖心もあったが、なんとかたどり着く。懐中電灯を消してみる。完全な暗闇。手も見えない。でも、何か見えているような感じもある。石の側壁を手でたどりながら、カーブのところまで近づくと、青い光が見えた。入り口から光が差し込んでいるのだ。希望の光。


地球の歴史の中で、いろんな偶然と必然の中から生まれた結晶が、地中には封じ込められている。その結晶は、時に地表近くに顔出していたりして、その美しさに気づいた人間によって、掘り出される。金属は溶かされ、混ぜ合わされ、叩かれ、武器が生まれた。農機具や狩猟道具も生まれた。そして、楽器も生まれた。そして、それが悲劇を生むこともあった。なんという巡り合わせだろうか。ガムランが再び地中に潜り音を響かせることになった。
以下は、マルガサリのメルマガの引用です。
● 燃える世界遺産 ?マンガン・ナイトクルーズ?
在日朝鮮人の強制連行や過酷な強制労働などの歴史を語るマンガン記念館と、深いつながりを持つに至った美術家、高嶺格さん。その閉館と、そこを舞台に描かれた2冊の本の出版を記念して行われるイベントです。高嶺さん出版の「在日の恋人」には、高嶺さんの結婚式でマルガサリが演奏したことについても書かれています。マルガサリにとっては、初のマンガン炭坑の狭い坑道内でのライブになります。通常のステージではあり得ない演奏になることは間違いありません。マルガサリは21時から1時間出演します。どうぞお楽しみに!
以下、高嶺さんのHPより転載します。
丹波マンガン記念館は、残念ながら2009年5月31日をもって閉館してしまうことに
なりました。(涙)
そこで、マンガン最後の夜をみんなで楽しもうと、タカミネ企画の野外ライブイ
ベントを行います。
李さんの本「丹波マンガン記念館の7300日」と高嶺の「在日の恋人」の出版時期が重なった事もあり、さよならマンガン記念館+出版記念合同パーティー!と相成りました。
洞窟のインスタレーションを見れるのも、これで最後となります。
パーティを彩る豪華ゲストは以下の通り!
二階堂和美
ナジャ・グランディーバ
マルガサリ
レイ・ハラカミ
山中透
チェ ジェチョル(崔 在哲)
Dj tatsuo.y aka Sonten feat Toyo Miyoshi
HTH + マナブ(光蟲)
DJ mamezuka
grooveconnection
燃える世界遺産 ?マンガン・ナイトクルーズ?
日時:2009年5月30日(土) OPEN/START 17:00
場所:丹波マンガン記念館 京都市右京区京北下中町西大谷45番地
http://www6.ocn.ne.jp/~tanbamn/
料金:前売 3000円 当日 3500円(税込/マンガン記念館入館料?800を含む)
予約方法:p-hour@leto.eonet.ne.jpまで、件名を「5/30 マンガン記念館」とし
て、お名前、電話番号、人数をお知らせください。メール受信後数日以内に、受付確認と詳細メールをお送りします。
こちらでチラシが見れます
http://www.takaminet.com/topic/090530/
※ 上記のチラシには、来場にあたっての様々な注意事項が書かれています。ぜひご覧になってお越し下さい。チラシでは京都府立ゼミナールハウスの宿泊をご紹介しましたが、空室はほとんどなくなりました。宿泊に関するご相談は予約申し込みメールに併せて、その旨お伝えください。ゼミナールハウスへ直接連絡しても受付けできません。
元マルガサリのまっちゃんと現マルガサリのカワカミさんと、京都の京北町にある丹波マンガン記念館へ出かけた。30日に、マンガン記念館閉館の記念イベントがあり、マルガサリが出演するのだけれど、僕は東京へ行っていて出られない。あまりにも残念なので、この日に出かけることにしたのだ。
豊能町の家を9時半に出発。国道477線に入ると、杉木立の中をガードレールの無い急カーブが続いている。時折現れる池が美しい。11時頃にマンガン記念館着。なんと火曜日は休館日。しかし、事前に高嶺さんにメールをしていて、家族で泊まり込んでいると聞いていたので、塀の横っちょから回り込んで中へ入ってみる。高嶺さんの本「在日の恋人」で見た作業場が見えてきた。チェーンソーや溶接機で作業をしている姿が見える。高嶺さんもいた。
坑道に電気がついているのを確認して、高嶺さんはイベントの舞台作り作業へ戻って行った。僕らは、早速坑道へ入ってみた。
ひんやりしている。年中10度から13度とのことだ。水が上から滴ってくる。中にも川が流れている。メインの通路からあらゆる方向へ坑道が延びている。マンガンという戦争中の武器には欠かせなかった鉱物を探し当てるために伸びた穴。移動するためのトンネルや自然現象で出来た鍾乳洞とは異なる欲望の暗闇だった。在日朝鮮人、非差別部落の人々が手掘りと発破で掘り進んだという。
坑道を出ると、暖かかった。小川が流れていた。顔を洗ってみた。水が冷たかった。記念館に入ると館長の李さんが女性記者にインタビューを受けていた。「丹波マンガン記念館の7300日」李龍植(解放出版)の出版記念だろう。
高嶺格さんの作品「在日の恋人」は、少し高台になったところにある坑道にある。というか坑道自体が作品だ。そこへ、李さん、記者、僕ら3人で向かった。途中でシマヘビが出た。「在日の恋人」坑道には、一人ずつ入らなければならなかった。まず、記者が入った。その間、李さんと少し話をした。高嶺さんの本に強面の人と書いてあった。今時珍しいパンチパーマをかけた風貌だったが、物腰は意外に柔らかかった。記者が出てきた。
「奥まで行く時は暗かったけど、戻って来る時は、明るく感じました。」
「暗いとこから見た方がよう見えるんや。世の中もそうや。」と、李さん。
ふたりは山を下りて行った。カワカミさんに続いて、僕も入った。幅約1.5メートル、高さ約2メートルの坑道をゆっくりと進んだ。所々に高嶺さんが作った焼きものがある。段々と暗くなって、すぐに何も見えなくなる。懐中電灯をたよりに進んでい行く。カビ臭い匂いとともに、根っこのオブジェが現れる。しばらく行った先で坑道がカーブしている。その奥にもさらにオブジェがある。ここで終点。
恐怖心もあったが、なんとかたどり着く。懐中電灯を消してみる。完全な暗闇。手も見えない。でも、何か見えているような感じもある。石の側壁を手でたどりながら、カーブのところまで近づくと、青い光が見えた。入り口から光が差し込んでいるのだ。希望の光。


地球の歴史の中で、いろんな偶然と必然の中から生まれた結晶が、地中には封じ込められている。その結晶は、時に地表近くに顔出していたりして、その美しさに気づいた人間によって、掘り出される。金属は溶かされ、混ぜ合わされ、叩かれ、武器が生まれた。農機具や狩猟道具も生まれた。そして、楽器も生まれた。そして、それが悲劇を生むこともあった。なんという巡り合わせだろうか。ガムランが再び地中に潜り音を響かせることになった。
以下は、マルガサリのメルマガの引用です。
(佐久間新)
● 燃える世界遺産 ?マンガン・ナイトクルーズ?
在日朝鮮人の強制連行や過酷な強制労働などの歴史を語るマンガン記念館と、深いつながりを持つに至った美術家、高嶺格さん。その閉館と、そこを舞台に描かれた2冊の本の出版を記念して行われるイベントです。高嶺さん出版の「在日の恋人」には、高嶺さんの結婚式でマルガサリが演奏したことについても書かれています。マルガサリにとっては、初のマンガン炭坑の狭い坑道内でのライブになります。通常のステージではあり得ない演奏になることは間違いありません。マルガサリは21時から1時間出演します。どうぞお楽しみに!
以下、高嶺さんのHPより転載します。
丹波マンガン記念館は、残念ながら2009年5月31日をもって閉館してしまうことに
なりました。(涙)
そこで、マンガン最後の夜をみんなで楽しもうと、タカミネ企画の野外ライブイ
ベントを行います。
李さんの本「丹波マンガン記念館の7300日」と高嶺の「在日の恋人」の出版時期が重なった事もあり、さよならマンガン記念館+出版記念合同パーティー!と相成りました。
洞窟のインスタレーションを見れるのも、これで最後となります。
パーティを彩る豪華ゲストは以下の通り!
二階堂和美
ナジャ・グランディーバ
マルガサリ
レイ・ハラカミ
山中透
チェ ジェチョル(崔 在哲)
Dj tatsuo.y aka Sonten feat Toyo Miyoshi
HTH + マナブ(光蟲)
DJ mamezuka
grooveconnection
燃える世界遺産 ?マンガン・ナイトクルーズ?
日時:2009年5月30日(土) OPEN/START 17:00
場所:丹波マンガン記念館 京都市右京区京北下中町西大谷45番地
http://www6.ocn.ne.jp/~tanbamn/
料金:前売 3000円 当日 3500円(税込/マンガン記念館入館料?800を含む)
予約方法:p-hour@leto.eonet.ne.jpまで、件名を「5/30 マンガン記念館」とし
て、お名前、電話番号、人数をお知らせください。メール受信後数日以内に、受付確認と詳細メールをお送りします。
こちらでチラシが見れます
http://www.takaminet.com/topic/090530/
※ 上記のチラシには、来場にあたっての様々な注意事項が書かれています。ぜひご覧になってお越し下さい。チラシでは京都府立ゼミナールハウスの宿泊をご紹介しましたが、空室はほとんどなくなりました。宿泊に関するご相談は予約申し込みメールに併せて、その旨お伝えください。ゼミナールハウスへ直接連絡しても受付けできません。
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去年の5月のブログに、夜明けのカエルの声がすごいと書いています。我が家があるクレーターのようになった谷の棚田に住む何千何万匹のカエルが夕方から鳴き始め、聞くともなしに聞き合って一晩かかって到達する夜明け前のアンサンブル。先日我が家に泊まりに来たあいのてさん(野村誠さん、片岡祐介さん、尾引浩志さん)と早起きして聞こうとしましたが、寝坊してしまいました。また、チャレンジしようと思っています。
さて、公演情報です。
1件目
3月に行った「大阪ピクニック」に引き続き、「東京ピクニック」をします。ピクニックはシリーズ化して行きたいと思っています。現在、「大阪ピクニック」に参加した何名かのメンバーと、その時の映像分析や次回へ向けての作戦会議などを行っています。
「東京ピクニック 坂編 菊坂?金魚坂」
文京区の本郷界隈にある菊坂?金魚坂をピクニックします。坂に着目して、街を感じ、ダンスや音楽の種を探す試みです。
日時:5月29日(金) 13:00?夕方まで
集合:JRお茶の水駅改札口(四谷寄り)
ルート:東大近くで昼食し、菊坂方面へ向かう
費用:無料(昼食実費)
持ち物:自由(カメラ、録音機、地図、シャボン玉、坂道で転がしたいもの、など)
服装:自由(動きやすい格好、僕はゴロゴロ転がったりするかもしれません)
参加予定者:佐久間新、中村伸さん、手塚夏子さん、手塚季林くん、デビッド・コットロイさん
問い合わせ・申し込み:このメールへ5月28日中にに返信してください。
2件目
コンテンポラリーダンスの手塚夏子さんが企画する「カラダカフェ」に出演します。
カラダカフェ?水のカラダ カラダの水?
手塚夏子×佐久間新
[ カラダカフェとは、リラックスした時空間でコーヒーなどを飲みながら体についての様々な雑談をするイベントです。実験やパフォーマンスも交えつつ、雑談から哲学的テーマまでも話が広がります。] というイベントです。
手塚さんのウェブに詳しく載っています。
http://natsukote-info.blogspot.com/
日時:2009年5月30日(土) 14:30開店 15:00スタート
場所:門仲天井ホール
料金:1,500円(1ドリンク付き)
予約・お問い合わせ:もんてんことばのばシリーズPJ(黒崎)
tel 03-3641-8275 fax 03-3820-8646
e-mail acn94264@par.odn.ne.jp
http://www5f.biglobe.ne.jp/~monten/schedule.html
久々の東京です。関東方面の方は、ぜひお会いしましょう。
さて、公演情報です。
1件目
3月に行った「大阪ピクニック」に引き続き、「東京ピクニック」をします。ピクニックはシリーズ化して行きたいと思っています。現在、「大阪ピクニック」に参加した何名かのメンバーと、その時の映像分析や次回へ向けての作戦会議などを行っています。
「東京ピクニック 坂編 菊坂?金魚坂」
文京区の本郷界隈にある菊坂?金魚坂をピクニックします。坂に着目して、街を感じ、ダンスや音楽の種を探す試みです。
日時:5月29日(金) 13:00?夕方まで
集合:JRお茶の水駅改札口(四谷寄り)
ルート:東大近くで昼食し、菊坂方面へ向かう
費用:無料(昼食実費)
持ち物:自由(カメラ、録音機、地図、シャボン玉、坂道で転がしたいもの、など)
服装:自由(動きやすい格好、僕はゴロゴロ転がったりするかもしれません)
参加予定者:佐久間新、中村伸さん、手塚夏子さん、手塚季林くん、デビッド・コットロイさん
問い合わせ・申し込み:このメールへ5月28日中にに返信してください。
2件目
コンテンポラリーダンスの手塚夏子さんが企画する「カラダカフェ」に出演します。
カラダカフェ?水のカラダ カラダの水?
手塚夏子×佐久間新
[ カラダカフェとは、リラックスした時空間でコーヒーなどを飲みながら体についての様々な雑談をするイベントです。実験やパフォーマンスも交えつつ、雑談から哲学的テーマまでも話が広がります。] というイベントです。
手塚さんのウェブに詳しく載っています。
http://natsukote-info.blogspot.com/
日時:2009年5月30日(土) 14:30開店 15:00スタート
場所:門仲天井ホール
料金:1,500円(1ドリンク付き)
予約・お問い合わせ:もんてんことばのばシリーズPJ(黒崎)
tel 03-3641-8275 fax 03-3820-8646
e-mail acn94264@par.odn.ne.jp
http://www5f.biglobe.ne.jp/~monten/schedule.html
久々の東京です。関東方面の方は、ぜひお会いしましょう。
5月19日昼過ぎ、あいのてさんがやってきた。尾引さんが車を運転してきた。新型インフルエンザの影響で保育所が休みなので、ブナも一緒。

まずは、お昼ご飯。インドネシアのソト・アヤム。レモングラスの効いた鶏肉のスープ。それと近所の地玉子屋さんで売ってる野菜のサラダ。尾引さんが、トマトの味に感動。僕とブナはもう食べていたので、あいのてさん3人で食べる。尾引さんと片岡さんは昼ビール。

乾燥機のホースを使って声でいろいろ遊んだり、昼寝したり、のんびり。夕方から、僕とイウィンさんは大阪の石橋でジャワ舞踊の教室。あいのてさんたちにありあわせの夕食を作る。テンペなど。インドネシアの大豆の発酵食品を揚げたもの。
車で10分の老人ホームに温泉があり、ビジターでも入れいるので、そこへ行ってもらった。いつ行っても貸し切りだし、天然温泉だし、マッサージチェアもただなのだ。
レッスンから帰ってくると、尾引さんと片岡さんが、
「気づいたら、無くなっていました。」と。
近所の酒蔵で作っている秋鹿の生酒「生囲い」の4合瓶が空いていた。こんなことならもっと大きいのを買っておけば良かった。芋焼酎にはしごして、僕も酒宴に加わった。野村さんは岩茶を飲む。ブナも興奮している。明日も休みなので、今日は夜更かしOKにした。2時頃まで、盛り上がった。夜明けのカエルの声を聞こうと思ったが、みんな寝坊してしまった。
納豆とみそ汁の朝ご飯を食べて、のんびりして、それから、散歩に出かけた。田んぼのあぜ道を通って、泉の横を通って、神社を通って、墓場の横を通って、棚田を通って、桜の横を通って、スペース天へ。
あいのてさん、僕、そしてブナで、ガムランの即興をした。片岡さんが録音と、演奏しながらカメラでパチパチ写真を撮った。



1月のえずこホール以来、音楽をしたくなっていた。踊りながら音を出した。即興は1時間くらい続いた。ブナが、本当に楽しそうにガムランを叩いた。保育所へ入るまでは、マルガサリの練習へよく来ていたが、ここのところは少しガムランから遠ざかっていたのだ。なるべく機会をつくってあげよう。
帰り道。緑がきれいだった。田んぼに張られた水が気持ちよかった。思わず走り出したくなったブナが、野村くんと走って行った。








まずは、お昼ご飯。インドネシアのソト・アヤム。レモングラスの効いた鶏肉のスープ。それと近所の地玉子屋さんで売ってる野菜のサラダ。尾引さんが、トマトの味に感動。僕とブナはもう食べていたので、あいのてさん3人で食べる。尾引さんと片岡さんは昼ビール。

乾燥機のホースを使って声でいろいろ遊んだり、昼寝したり、のんびり。夕方から、僕とイウィンさんは大阪の石橋でジャワ舞踊の教室。あいのてさんたちにありあわせの夕食を作る。テンペなど。インドネシアの大豆の発酵食品を揚げたもの。
車で10分の老人ホームに温泉があり、ビジターでも入れいるので、そこへ行ってもらった。いつ行っても貸し切りだし、天然温泉だし、マッサージチェアもただなのだ。
レッスンから帰ってくると、尾引さんと片岡さんが、
「気づいたら、無くなっていました。」と。
近所の酒蔵で作っている秋鹿の生酒「生囲い」の4合瓶が空いていた。こんなことならもっと大きいのを買っておけば良かった。芋焼酎にはしごして、僕も酒宴に加わった。野村さんは岩茶を飲む。ブナも興奮している。明日も休みなので、今日は夜更かしOKにした。2時頃まで、盛り上がった。夜明けのカエルの声を聞こうと思ったが、みんな寝坊してしまった。
納豆とみそ汁の朝ご飯を食べて、のんびりして、それから、散歩に出かけた。田んぼのあぜ道を通って、泉の横を通って、神社を通って、墓場の横を通って、棚田を通って、桜の横を通って、スペース天へ。
あいのてさん、僕、そしてブナで、ガムランの即興をした。片岡さんが録音と、演奏しながらカメラでパチパチ写真を撮った。



1月のえずこホール以来、音楽をしたくなっていた。踊りながら音を出した。即興は1時間くらい続いた。ブナが、本当に楽しそうにガムランを叩いた。保育所へ入るまでは、マルガサリの練習へよく来ていたが、ここのところは少しガムランから遠ざかっていたのだ。なるべく機会をつくってあげよう。
帰り道。緑がきれいだった。田んぼに張られた水が気持ちよかった。思わず走り出したくなったブナが、野村くんと走って行った。







(佐久間新)
連休中に付近の田植えが始まった。カエルが一斉に鳴き始めた。去年の5月の日記に、夜明けのカエルの声はすごかったと書いている。
http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-date-200805.html
今年は、まだ起きて聞いていない。来週、野村誠さん、片岡祐介さん、尾引浩志さんが泊まりにくるので、その時にでも聞いてみよう。彼ら3人は、「あいのて」という画期的な子供向け音楽番組をNHK教育で1年間やっていた。今は、CD発売記念のライブツア?をしているところで、関西に来たついでに、立ち寄ってくれるのだ。

大家さんのKさんに、雨樋掃除を頼まれていた。高いところに上るのは、小学校以来得意なので、全然平気。でも、Kさんの家は、築100年の純和風の大屋敷で、母屋の他にも蔵、倉庫、井戸小屋、茶室などいっぱい建物がある。その中の山に面して、葉っぱが落ちやすいところをメインで掃除した。屋根の上、しかも雨樋なので、端っこに乗らなければならない。それなりに注意が必要だ。

母屋の棟の端っこに、鬼瓦がある。鬼の形ではなく、これはなんだろう?ちょんまげみたいだ。そして、その下に三角を合わせた三ツウロコの紋がある。これは家紋だろう。そして、その下に波のマークがある。立体的に飛び出た波。火災よけのためだろう。

我が家の窓の上には、三角に丸のマークがある。これはウロコ星。その昔、我が家は寒天の袋詰めをする作業場だったのだ。その商標がウロコ星。東南アジアにも輸出されていたそうだ。ジャワにも行っていただろうか。僕の舞踊団の名前はそこから取ってつけた。

http://margasari01.blog63.fc2.com/blog-date-200805.html
今年は、まだ起きて聞いていない。来週、野村誠さん、片岡祐介さん、尾引浩志さんが泊まりにくるので、その時にでも聞いてみよう。彼ら3人は、「あいのて」という画期的な子供向け音楽番組をNHK教育で1年間やっていた。今は、CD発売記念のライブツア?をしているところで、関西に来たついでに、立ち寄ってくれるのだ。

大家さんのKさんに、雨樋掃除を頼まれていた。高いところに上るのは、小学校以来得意なので、全然平気。でも、Kさんの家は、築100年の純和風の大屋敷で、母屋の他にも蔵、倉庫、井戸小屋、茶室などいっぱい建物がある。その中の山に面して、葉っぱが落ちやすいところをメインで掃除した。屋根の上、しかも雨樋なので、端っこに乗らなければならない。それなりに注意が必要だ。

母屋の棟の端っこに、鬼瓦がある。鬼の形ではなく、これはなんだろう?ちょんまげみたいだ。そして、その下に三角を合わせた三ツウロコの紋がある。これは家紋だろう。そして、その下に波のマークがある。立体的に飛び出た波。火災よけのためだろう。

我が家の窓の上には、三角に丸のマークがある。これはウロコ星。その昔、我が家は寒天の袋詰めをする作業場だったのだ。その商標がウロコ星。東南アジアにも輸出されていたそうだ。ジャワにも行っていただろうか。僕の舞踊団の名前はそこから取ってつけた。

(佐久間新)
5月5日、ジョグジャでフィールドワークをしている岡部政美さんからメールがあった。
スナルトモさんが亡くなった。消化器系の病気でしばらく入院していたのは知っていたが・・・。ジャワ舞踊ジョグジャ王宮スタイルの大名人。僕のジャワ舞踊荒型の先生、サンティヨさんのお父さんである。
スナルトモさんは、芸術高校(SMKI)の元副校長。弟は、スナリヤディさんとスナルヨさんで、ともに芸術大学(ISI)の先生だ。息子のサンティヨさんは教育大学の先生。家系的にみな、荒型の仮面舞踊(クロノ・トペン・セワンドノ)や猿のヒーロー(ハヌマン)や人形振り(タリ・メナッ)など、キレのある大胆な動きが必要となる舞踊が特に得意だ。キャラクターへの入り込みもものすごい。人形振りの舞踊を踊る時は、ギッと目を見開き、瞬きもしない。完全にキャラクターが乗り移った人形になりきり、ゼンマイが目一杯巻かれた機械仕掛けの人形のように、エネルギ?をみなぎらせて、舞台狭しと踊り回る。
スナルトモさんと最初に出会ったのは、留学して間もない頃だった。
僕は、芸術大学(ISI)の他に、プジョクスマン舞踊団でもレッスンを始めていた。舞踊団代表、サスミントさんの奥さんのスティアさんにいろいろと面倒を見てもらっていた。舞踊団では優型を集団レッスンで習っていて、荒型の個人レッスンも始めたかったので、誰に習ったら良いか聞いてみた。すると、当時芸術高校の副校長だったスナルトモさんを紹介してくれた。
芸術高校を訪ねて、舞踊を習いたいと伝えた。
すると、
「忙しいからダメだ。」
という答えだった。
なんとか頼みます、と粘ると、
「しょうがない。だったらワシのせがれに習いなさい。」
と言ってくれた。
それで、サンティヨさんとのレッスンが始まった。プジョクスマン舞踊団のプンドポを借りて、汗だくのレッスンだった。身長160センチに満たないサンティヨさんの素早い動きについていくのは、本当に大変だった。小柄でやせていたが、足は大きかった。サッカーが大好きで、ジャワの人には珍しく、こざっぱりとしたポロシャツとスウェットパンツが練習スタイルだった。体を反転させるのがとても早く、どうしても取れないロナウジーニョのドリブルに立ち向かうような感じだった。
サンティヨさんは、当時まだ独身で、実家暮らしだった。たまに家でレッスンをすると、窓の向こうから、スナルトモさんがチラチラ見てくれていることがあった。それからは、少しずつ口をきいてくれるようになった。少し色の入った眼鏡をかけ、丁寧にそろえた口ひげを蓄えていた。70年代製のフィアットに乗り、日本でいうと「新星」や「若葉」のような「クボン・ジュルック(みかん畑)」という煙草を吸っていた。半袖の茶色いバティックを粋に着こなし、若い恋人がたくさんいるという噂だった。ちょっと不良っぽくて、口のうまいおじさんという風情で、僕をからかってくれたりした。こんなことも、荒型には必要な資質なのだろう。
もう退職するほどの年だったので、舞台で踊ることはなかったが、ちょっと見本を見せたりする時に踊ることがあった。圧倒的だった。息子のサンティヨさんもキレがあって、すごかったが、ものが違う感じだった。
たまたまこの日は、こどもの日だったので、ブナとイウィンさんと王子公園へ遊びに行っていた。ライオンもトラも眠そうにしていたが、クマの檻の前に来て、ハッとした。その大きさといい、動きといい、迫力がすごかった。体の中心部に強力な発電機とモーターがあり、脊椎で動いている感じ。
ちょっと変な話だが、スナルトモさんのことを思い出した。人間離れしているのだ。ジャワ舞踊には、いくつかのキャラクターの種類があるが、猿や百人力の怪物などを得意とする舞踊家には、多かれ少なかれ、こんな動物的な要素が必要なのかもしれない。
スナルトモさんは学校の先生だが、自身は共同体や王宮で舞踊を習った世代である。この世代より若くなると、芸術高校や芸術大学に通う世代になる。もちろん、上手な人はたくさんいるんだけど、部屋に入ってきただけで、ジャワのにおいが立ちこめるような舞踊家はいなくなってきた。学校だと、ジャワ舞踊以外にもバリ舞踊やスンダ舞踊を習うし、生活様式もどんどん変わってきているので、仕方がない。
そんな貴重な人に出会えて、話が出来て、舞踊が見られたことを感謝するしかないのか。
スナルトモさんが亡くなった。消化器系の病気でしばらく入院していたのは知っていたが・・・。ジャワ舞踊ジョグジャ王宮スタイルの大名人。僕のジャワ舞踊荒型の先生、サンティヨさんのお父さんである。
スナルトモさんは、芸術高校(SMKI)の元副校長。弟は、スナリヤディさんとスナルヨさんで、ともに芸術大学(ISI)の先生だ。息子のサンティヨさんは教育大学の先生。家系的にみな、荒型の仮面舞踊(クロノ・トペン・セワンドノ)や猿のヒーロー(ハヌマン)や人形振り(タリ・メナッ)など、キレのある大胆な動きが必要となる舞踊が特に得意だ。キャラクターへの入り込みもものすごい。人形振りの舞踊を踊る時は、ギッと目を見開き、瞬きもしない。完全にキャラクターが乗り移った人形になりきり、ゼンマイが目一杯巻かれた機械仕掛けの人形のように、エネルギ?をみなぎらせて、舞台狭しと踊り回る。
スナルトモさんと最初に出会ったのは、留学して間もない頃だった。
僕は、芸術大学(ISI)の他に、プジョクスマン舞踊団でもレッスンを始めていた。舞踊団代表、サスミントさんの奥さんのスティアさんにいろいろと面倒を見てもらっていた。舞踊団では優型を集団レッスンで習っていて、荒型の個人レッスンも始めたかったので、誰に習ったら良いか聞いてみた。すると、当時芸術高校の副校長だったスナルトモさんを紹介してくれた。
芸術高校を訪ねて、舞踊を習いたいと伝えた。
すると、
「忙しいからダメだ。」
という答えだった。
なんとか頼みます、と粘ると、
「しょうがない。だったらワシのせがれに習いなさい。」
と言ってくれた。
それで、サンティヨさんとのレッスンが始まった。プジョクスマン舞踊団のプンドポを借りて、汗だくのレッスンだった。身長160センチに満たないサンティヨさんの素早い動きについていくのは、本当に大変だった。小柄でやせていたが、足は大きかった。サッカーが大好きで、ジャワの人には珍しく、こざっぱりとしたポロシャツとスウェットパンツが練習スタイルだった。体を反転させるのがとても早く、どうしても取れないロナウジーニョのドリブルに立ち向かうような感じだった。
サンティヨさんは、当時まだ独身で、実家暮らしだった。たまに家でレッスンをすると、窓の向こうから、スナルトモさんがチラチラ見てくれていることがあった。それからは、少しずつ口をきいてくれるようになった。少し色の入った眼鏡をかけ、丁寧にそろえた口ひげを蓄えていた。70年代製のフィアットに乗り、日本でいうと「新星」や「若葉」のような「クボン・ジュルック(みかん畑)」という煙草を吸っていた。半袖の茶色いバティックを粋に着こなし、若い恋人がたくさんいるという噂だった。ちょっと不良っぽくて、口のうまいおじさんという風情で、僕をからかってくれたりした。こんなことも、荒型には必要な資質なのだろう。
もう退職するほどの年だったので、舞台で踊ることはなかったが、ちょっと見本を見せたりする時に踊ることがあった。圧倒的だった。息子のサンティヨさんもキレがあって、すごかったが、ものが違う感じだった。
たまたまこの日は、こどもの日だったので、ブナとイウィンさんと王子公園へ遊びに行っていた。ライオンもトラも眠そうにしていたが、クマの檻の前に来て、ハッとした。その大きさといい、動きといい、迫力がすごかった。体の中心部に強力な発電機とモーターがあり、脊椎で動いている感じ。
ちょっと変な話だが、スナルトモさんのことを思い出した。人間離れしているのだ。ジャワ舞踊には、いくつかのキャラクターの種類があるが、猿や百人力の怪物などを得意とする舞踊家には、多かれ少なかれ、こんな動物的な要素が必要なのかもしれない。
スナルトモさんは学校の先生だが、自身は共同体や王宮で舞踊を習った世代である。この世代より若くなると、芸術高校や芸術大学に通う世代になる。もちろん、上手な人はたくさんいるんだけど、部屋に入ってきただけで、ジャワのにおいが立ちこめるような舞踊家はいなくなってきた。学校だと、ジャワ舞踊以外にもバリ舞踊やスンダ舞踊を習うし、生活様式もどんどん変わってきているので、仕方がない。
そんな貴重な人に出会えて、話が出来て、舞踊が見られたことを感謝するしかないのか。
(佐久間新)
小学校の頃、少年野球でショートをやっていたオサムの家は団地の5階にあり、猫と僕らのたまり場だった。夏に遊びに行くと、和歌山出身で釣り好きのおっちゃんが、「お前ら、暑苦しい。」と言って、僕らを風呂場で強制的に水浴びさせた。オサムの姉さんのスミちゃんは、僕らより2,3歳年上の、ショートカットで勝ち気な美人だった。僕とはとても気が合い、少女漫画やキヨシローを教えてくれた。
中学へ行っても、高校へ行っても、カッコいい、僕が気になる女の子はみんなキヨシローが好きだった。僕ももちろんあこがれた。内ポケットにラジオはなかったけれど、僕は学校の屋上に上がるのが好きだった。高校の頃、美術の授業なんかはよくさぼって屋上へ上がった。秘密の階段のルートもあったが、雨樋を伝って上がるちょっと危険なルートもあった。今考えると危ないが、小学校の頃から、雨樋を伝って上がるのに慣れていた僕にはへっちゃらだった。そのおかげか、今でも雨樋掃除を頼まれる。
ロックっていうのは、生き方なんだって言うのを教えてくれた。
訃報のあった日、23年ぶりに高校3年の同窓会をしていた。卒業以来始めて見る顔もあった。みんな面影を残しつつ、それぞれの23年が降り積もっていた。担任の先生は80歳になり、僕らはやっと先生の半分の歳になっていた。
中学へ行っても、高校へ行っても、カッコいい、僕が気になる女の子はみんなキヨシローが好きだった。僕ももちろんあこがれた。内ポケットにラジオはなかったけれど、僕は学校の屋上に上がるのが好きだった。高校の頃、美術の授業なんかはよくさぼって屋上へ上がった。秘密の階段のルートもあったが、雨樋を伝って上がるちょっと危険なルートもあった。今考えると危ないが、小学校の頃から、雨樋を伝って上がるのに慣れていた僕にはへっちゃらだった。そのおかげか、今でも雨樋掃除を頼まれる。
ロックっていうのは、生き方なんだって言うのを教えてくれた。
訃報のあった日、23年ぶりに高校3年の同窓会をしていた。卒業以来始めて見る顔もあった。みんな面影を残しつつ、それぞれの23年が降り積もっていた。担任の先生は80歳になり、僕らはやっと先生の半分の歳になっていた。
(佐久間新)
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