Gamelan Marga Sari -Blog-

*ガムラン マルガサリ*のメンバーによるブログです.
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ウロコ通信77 書きました
今年のウロコ庵周辺は、本当に雪がよく降ります。ここ数日は少し暖かくなり、木々の先端が緩るみぼんやり色づいてきましたが、日陰にはまだ雪が残っています。

2月6日から10日まで、久々にジョグジャカルタへ行ってきました。2年前のジャワ島中部地震で被害を受けたプジョクスマン舞踊団の活動場所であるプンドポ(木造の伝統建築物)が再建されたのを見てきました。しかし、建物の母屋や楽屋、事務所は依然として壊れたままです。今後、どうやって再建を進めていくかについて話し合いをしてきました。

プジョクスマン舞踊団の支援に関しては、ブログに報告を載せています。ねばり強い支援活動をしていきたいと思っています。
http://pujokusuman.blog60.fc2.com/blog-category-1.html

さて、公演情報です。
今回は、大阪大学のコミュニティデザインセンターでしているプロジェクトのご案内です。
「動いて、感じて、考える」「感じて、動いて、考える」をテーマに、日曜日の午後、しみじみとからだを動かしてみたいと思っています。

オレンジカフェのスペシャル版〈オレンジカフェ・プラス〉
日時  2月24日(日) 13時?18時(前半13時?、後半16時?)
場所  CSCDオレンジショップ(大阪大学豊中キャンパス基礎工学部J棟1階)
テーマ からだでしみじみ考える
ゲスト 佐久間新さん(舞踊家)、玉地雅浩さん(理学療法士)
カフェマスター 本間直樹+志賀玲子+西村ユミ
申し込み不要 出入り自由、無料です。
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/activity/view/129?mode=1

それでは、季節の変わり目、皆様ご自愛下さい。
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闇に染み入るガムランの音
2月8日
朝から、イウィンさんのお父さんがやってきた。

おはようございます。こちらから伺わなくてすみません。

Tidak apa-apa! (大丈夫、大丈夫) Bagaimana Buna?(ブナはどうしている?)

元気ですよ。

タマンシスワ通りにある我が家の近くのネットカフェへ行く。日本語がうまく読めない。ところどころが伏せ字のようになっている。店に1台、26番のパソコンだけが日本語を読めると、後で分かった。

IMG_0825.jpg

[闇に染み入るガムランの音]の続きを読む
プンドポ(舞台)の再建
僕は、2006年のジャワ島中部地震で被災したプジョクスマン舞踊団を支援しています。震災後すぐに支援会を発足しましたが、舞踊団の本拠地であるプジョクスマン(屋敷全体)を再建するには、所有権と使用権を調整する必要がありました。このことに随分時間がかかりましたが、1年半以上経ってようやくプジョクスマン(屋敷全体)の一部であるプンドポ(舞踊団が舞台として使っている部分)の再建がほぼ終わりました。

今回は、震災の1か月半後にジョグジャを訪れて以来の久々の訪問でした。下記のブログにも、報告を書いていく予定です。

http://pujokusuman.blog60.fc2.com/
これまでの経緯も書いています。

2008年2月7日
前日の夜8時半頃、ジョグジャの我が家に到着。次々と知人に電話をかけて、近況を聞き、明日からの予定を決めた。今回は3日間だけの滞在なので、なるべく効率よく回らなければならない。

IMG_0791.jpg
[プンドポ(舞台)の再建]の続きを読む
終わりの始まり
1月27日に、インドネシアの第2代大統領であったスハルトが亡くなった。僕が留学を始めた時、スハルトは任期が25年を超えて、絶頂期にあった。その時のことを少し思い出した。

1995年8月21日
夕刻、ジャカルタのスカルノ・ハッタ空港に着いた。出口に、教育文化省の口髭をたくわえた役人が迎えに来ていた。別便でオーストラリア人ふたりもやって来るというので、ロビーで少し待った。全員がそろうと、バスに乗って、宿舎に連れて行かれた。部屋は、オーストラリア人の男性と相部屋だった。スーツケースに、シド・ヴィシャスのステッカーが貼ってあった。

朝、子供達の声で目を覚ました。ドアの前で、子供達が掃除をしていた。宿舎は、小学校の一室だったのだ。オーストラリア人ふたりと僕は、片言のインドネシア語とつたない英語で意思疎通をした。とにかく腹が減っていたので、外へ出て、リンゴとビーフン・ゴレン(焼きビーフン)を買った。昨日の役人によると、僕たちは教育文化省に行かなければならないようだった。小学校に張ってある地図でなんとか現在地を確認し、どうにかバスでジャカルタの目抜き通りにある立派な役所に到着した。僕たちは、インドネシア政府から奨学金をもらって留学しに来たのだった。

留学することになったが、インドネシア語がほとんど出来なかったので、出発前にジャカルタである1週間のインドネシア語特訓コースに申し込んでいた。先生は、文学者であり、大阪外国語大学の教官だったアイプ・ロシディさんの娘のティティスさんだった。ティティスさんは、聡明快活で、日本語がペラペラで、授業はとても楽しかった。1週間のジャカルタ滞在中は、ティティスさんの友人宅にホームステイした。そこには、僕と同年代の息子がおり、何かと面倒を見てくれた。

夕食後、部屋でよく話をした。ドアを閉めた薄暗い部屋で、彼は声を潜めてスハルト大統領の批判を始めた。不正蓄財などに関してである。前屈みになり、本当に声を潜めていた。誰かに聞かれたらまずい、と目がクルリと光っていた。

今では、考えられないが、つい10数年前まではそんな社会の雰囲気だった。留学3年目、インドネシアはアジア通貨危機に巻き込まれ、暴動が頻発し政治も混迷していた。1998年5月20日、大きなデモが予想されていた日に、僕はバリ島へ避難した。その翌日、スハルト大統領は失脚した。

1998年8月20日、丸3年ぶりに日本へ一時帰国した。関西空港に到着すると、目眩のするような違和感に襲われた。未来世紀に来たようだった。僕のジャワでの留学生活は、スハルト大統領の終わりの始まりの時期だったのだ。良くも悪くもインドネシアの古い時代を体験出来たのかもしれなかった。


留学中、インドネシア芸術大学と共に、プジョクスマン舞踊団で舞踊を学んだ。数多くの舞台にも立たせてもらった。その大学も舞踊団も、2006年5月27日に起こったジャワ島中部地震で大きな被害を受けた。僕は、舞踊団を支援するグループを立ち上げた。建物、衣装、楽器に甚大な被害があった。しかし、再建するには、いろいろな人間関係や利害関係を調整する必要があった。地震から1年半以上経って、建物の主要部分が再建された。ひとまず様子を見に行こうと思う。明日から日曜日まで、ジャワへ行って来ます。
(佐久間新)
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